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地学

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nougyou_saigai_kome


1: 2020/09/18(金) 11:02:45.23 _USER

「過去最悪だ」ウンカ大発生で稲作大打撃 肩を落とす生産者

 水稲の害虫トビイロウンカが福岡県の北九州・京築地区などで大発生し、稲作が大打撃を受けている。
 県は8月7日に警報を出して早めの刈り取りや農薬による防除を呼び掛けたが、関係者の予想以上に早く被害が拡大したようだ。
 被害多発地の一つとされる行橋市内では、稲が枯れて倒れた田んぼがあちこちで見られ、生産者らは「過去最悪だ」と肩を落としている。

(以下略、続きはソースでご確認下さい)

西日本新聞 9/18(金) 9:44
https://news.yahoo.co.jp/articles/9472b129c30e6adc4deac008ae7ff8464d511c7e


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1: 2020/09/15(火) 11:33:25.01

 邪馬台国はどこにあったのかー? 日本史最大のミステリーにこの夏、新たな説が登場した。タイトルはずばり「邪馬台国は別府温泉だった! 火山灰に封印された卑弥呼の王宮」(小学館新書・840円税別)。

 著者は、従来の学説にとらわれない柔軟な思考で古代中国の文献「三国志 魏志倭人伝」を丁寧に検証している。別府温泉の湯煙を思い浮かべつつ読めば、大分県人の夢広がる一冊だ。

 著者の酒井正士さん(64)は東京都出身。東大農学部卒業後、ヤクルト本社に勤務し、脳機能改善や老化予防のための医薬品・食品開発などに力を注いだ。

 邪馬台国の「謎」に興味を持ったのは約10年前。「邪馬台国の秘密」(高木彬光著・カッパノベルズ)がきっかけだった。歴史には門外漢の酒井さんだが、邪馬台国に関する文献を読みあさり、在野の研究者が集う「全国邪馬台国連絡協議会」の会員になって独自の研究を進めてきた。

 着目したのは、魏志倭人伝に残された「距離と方向」に関する記述だ。多くの学説は、古代中国の使節がまず日本に上陸した「末廬国」(まつろこく)を現在の松浦地方(唐津市)としている。これは「まつろ」と「まつうら」という、地名の類似からきており、邪馬台国研究の“元祖”である、江戸時代の朱子学者・新井白石が提唱したことも大きい―と酒井さん。

 同じように、使節の行程記録にある伊都国(いとこく)は糸島市とする説が多く、「九州説」「畿内説」のベースとなっている。しかし魏志倭人伝には、伊都国は末廬国の南東に位置するとの記述があり、2都市の実際の位置関係である「東」とは方向が異なる―と、酒井さんは指摘する。

 「高い測量技術を持ち、古くから正しい方角を重視してきた古代中国人が書き残した魏志倭人伝は、距離や方角について正確に記載されていると思います。現代に残された“生データ”を分析し、私は末廬国を北九州市として、その他の国の場所を推定していきました。すると、現在の日向街道を別府方面に進んだ道筋が、距離・方向ともに魏志倭人伝の記述とぴったり一致するのです」。

 酒井さんは実際の地図や地形図、航空写真などの資料をインターネットなどで入手し、魏志倭人伝の記述を照らし合わせた。そして、最終的に邪馬台国は別府市街にあった―と結論しているが、その遺跡は残念なことに、貞観9年(867年)の鶴見岳・伽藍岳の大噴火によって火山灰の下に埋もれてしまったのではないか―と考察している。

 「別府市街地の海岸部をのぞく一帯は奈良時代と平安時代の2回の噴火によって火山灰に埋め尽くされた―と考えます。地下には、イタリアのポンペイ遺跡のように、古代の遺跡が手つかずのままに残されているのでは―。調査したら遺物が出てくるかもしれません。

9/11(金) 11:37配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200911-00010001-mjikenbo-l44
https://amd.c.yimg.jp/amd/20200911-00010001-mjikenbo-000-1-view.jpg



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oshiro_aduchijou


1: 2020/09/15(火) 13:24:37.33

https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/353413

織田信長が琵琶湖近くに築いた安土城の天主(天守)を「復元」するプロジェクトを、滋賀県が進めている。
三日月大造知事は意欲的だが、実際に城を再建する場合、安土桃山時代に築かれた当時の姿を伝える史料は乏しく、
建築費も巨額で実現は容易ではない。完成わずか3年で焼失した「幻の城」。果たして再建なるか。

2026年の安土城築城450年祭に向けた目玉として、県が「『幻の安土城』復元プロジェクト」を立ち上げたのは昨年4月。
「安土城を目に見える形で復元し、発信する」とうたう。

安土城跡(近江八幡市安土町)で天主を再建するとなると、まず問題となるのは設計図だ。加賀藩御用大工だった家に伝わる図面
「天守指図」を基に故・内藤昌名古屋工業大名誉教授が1976年に発表した復元案など、天主の構造は長年考察されてきたが、史料は乏しい。

信長の旧臣が記した「信長公記」などで、天主が地上6階、地下1階だったことは分かっているが、信長が狩野永徳に描かせ、
ローマ教皇に送り届けたとされる「安土山図屏風(びょうぶ)」は今も見つかっていない。

もう一つの問題は費用だ。名古屋市はコンクリート製の名古屋城天守を木造で建て直す計画を進めている。事業費は505億円。
安土城の場合、木造だと名古屋城と同額程度がかかると県は見ており、コンクリート造でも約300億円かかると滋賀経済産業協会が概算している。

安土城のような特別史跡で城を再建する場合、文化庁は「史料に基づいた復元か」「遺構を保存できているか」など厳しい基準を設けており、ハードルはかなり高い。

そんな中、県が注目するのが、コンピューターグラフィックス(CG)による仮想現実(VR)や拡張現実(AR)といったデジタル技術で視覚化するプランだ。
この案は近江八幡市がすでに2012年と14年に実現させている。城跡近くにある「安土城天主信長の館」では15分のCG映像も鑑賞できる。

記者は7月、安土城跡を歩いた。石段「大手道」の両脇に信長が築いた当時の石垣が広がり、天主跡の石垣に上がると、
かつて湖だった干拓地が一望できた。壮麗なCG映像を脳内で重ね合わせると、城の威容を感じることができた。

「信長と家臣団の城」などの著書がある中井均・滋賀県立大教授は「木造で建てれば『正しい』と考える市民は多いが、現代技術を使えば、
それは復元ではない。石垣など城跡に残る本物をいかに見せるかに知恵を絞った方が良い」とCGを使ったデジタル復元と現在の遺構を
重ね合わせて楽しめる仕組み作りがベストだとする。


県民の意見は割れている。県が7月に行ったアンケートでは、現状維持を求める声が29・6%と最多だったが、
天主など建物復元を求める声も24・2%と同程度あった。

県は、実物を建築する案からCGでの復元まで4案について、ホームページなどで意見を募っており、11月には方向性を決める。
現実か仮想か、どんな城が登場するのだろうか。

近江八幡市がコンピューターグラフィックスで再現した安土城天主
https://kyoto-np.ismcdn.jp/mwimgs/b/4/600m/img_b4b2a9d9f01f7a8535fc96a5a4b1856a152076.jpg


【お城】織田信長の居城「安土城」の復元プロジェクト難航。資料乏しく、巨額の費用も課題。滋賀県の続きを読む

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1: 2020/09/13(日) 16:02:12.46 _USER

大半の日本人が知らない……「福井県の水月湖」が世界の研究に決定的な影響を及ぼした理由

 地学の仕事に「過去の時間を正確に測る」という大事な作業がある。
 日常生活で時間を計るのは時計であり、年月日や時分という単位が用いられる。
 そして地球が刻んだ時間を決めるのは地質学の仕事だ。
 それも地球科学者は10年や100年ではなく何千年あるいは何万年という時間を可能な限り正確に測定したい。

 よく知られているように、樹木に見られる「年輪」では縞(しま)の1本が1年に相当し、年輪を数えれば木の年齢が分かる。
 夏は年輪の幅が広く冬は狭いので、その年の気候を知ることも可能だ。
 また年輪の枚数を数えることで、樹木の経てきた過去まで時を追いかけることもできる。

 化石や遺物の年代を調べるには、それらに含まれる放射性炭素(14C)を測定する方法があるが、大きな誤差が伴う。
 そこで、年代を正確にさかのぼれる年輪の14Cと照らし合わせることで、化石や遺物の年代の特定につなげる方法が考案された。

 ヨーロッパでは年輪を用いて、約1万4700年前まで1年ごとの「標準時計」が作られた。
 しかし、それ以前は氷河期によって年代を測れる樹木がないため、こうした時計は存在しなかった。

 この標準時計を一気に伸ばしたのが、福井県の三方五湖の一つ、水月湖(すいげつこ)である。
 環境考古学者の安田喜憲氏が率いる研究者たちが1990年代以降、水月湖を基盤まで掘削し、地層を精密に解読して過去5万年にわたる1年ごとの世界標準を確立した。

(以下略、続きはソースでご確認下さい)

サンデー毎日×週刊エコノミストOnline 9/8(火) 10:06
https://news.yahoo.co.jp/articles/a354a613adc25faf41ccbf117e07ddacdcf3fded


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1: 2020/09/14(月) 15:07:15.84

https://news.yahoo.co.jp/articles/5ed3f014eddaa74ac92b5933183bd78f2e52825c

9/14(月) 11:39配信

西日本新聞

 16世紀後半の朝鮮出兵の拠点として、豊臣秀吉が佐賀県唐津市鎮西町に築いた名護屋城。徳川家康や伊達政宗など150以上の大名が参陣した歴史があり、城跡と一部の陣跡は国特別史跡に指定されている。ただ、「認知度が課題」と指摘されることも多い。その背景を探った。

 8月下旬の平日昼。名護屋城跡を訪れると、資料を手に歩く観光客がちらほら。東京から訪れた50代女性は「名だたる大名が集ったなんて、すごい場所」と驚いた表情で語った。観光で唐津を訪れて知り、初めて立ち寄ったという。

 名護屋城は当時、大坂城に次ぐ規模を誇ったとされる。現在、城跡には往時の姿を伝える石垣が残り、周囲には約150もの陣跡が確認されている。建物は一切ないが、日本の歴史上、類を見ない遺跡だ。

 珍しさが光る一方で認知度には疑問が残る。現地でガイドを務める女性(42)は「呼子でイカを食べる待ち時間に寄り、初めて歴史を知る観光客も多い。全国の有名な城跡に引けを取らない価値があるのに…」と首をかしげる。

 日本城郭協会によると、全国には2万~5万の城跡があるという。文化庁のまとめでは特別史跡に指定されている城跡は15カ所のみ。そのうち、秀吉に関係する大坂城跡と名護屋城跡で昨年度の来場者数を比較すると、大阪城天守閣を訪れた人は約218万人だったのに対し、名護屋城跡は約5万4千人。差は歴然だ。

    ◆   ◆

 「建物がないばっかりに目が行き届かないのでは」。現地でガイド活動などに取り組む市民団体「肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会」の事務局長(63)は、注目度に差が生じる一因をそう分析する。

 確かに、市中心部の唐津城は1966年に天守閣が造られ、観光地として定着。名護屋城跡よりも評価は劣るが、毎年度10万人以上が訪れる。「城がないと存在感に欠ける」と事務局長。だが実は、過去に「名護屋城天守閣復元計画」があったという。

 旧鎮西町の役場に勤めた男性(80)によると、56年に発足した町の初代町長、名古屋経一氏が旗振り役を担った。名古屋氏は「農漁業中心の町の発展には整備が必要」などと訴え、識者と協力して設計図を作成。62年に県教育委員会を通して国に復元許可を申請したという。

次へ
https://news.yahoo.co.jp/articles/5ed3f014eddaa74ac92b5933183bd78f2e52825c?page=2
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【佐賀】 「大坂城に次ぐ規模」だったのに… 佐賀の名城跡、知名度不足の理由と知ってほしい価値の続きを読む

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1: 2020/09/13(日) 08:42:03.53

 幕末の京都で反幕府勢力の鎮圧にあたった新選組の拠点「不動堂村屯所(ふどうどうむらとんしょ)」が、現在のリーガロイヤルホテル京都(京都市下京区)付近にあったことを裏付ける古文書が、浄土真宗本願寺派本願寺史料研究所(同)で見つかった。この屯所への移転にかかわり、直前に屯所が置かれた西本願寺の史料であることから、専門家は確度が高いとみる。

拠点を転々
 新選組は1863年から壬生寺(みぶでら)(同市中京区)近くを屯所としたが、隊士が増えて手狭になったため、65年、西本願寺に移った。境内に新選組本陣の看板を掲げ、寺の北東にあった北集会所(きたしゅうえしょ)と、現在もある太鼓楼を使っていたという。

 しかし「本願寺史」などによれば、新選組は境内で大砲や小銃を連発する訓練をして、参拝する門徒や僧侶らを震撼(しんかん)させた。また腹を切る者や処刑される者、捕縛される者らがおり、「極楽に地獄を合併したるがごとし」といわれる光景だったという。

 西本願寺は新選組を追い出すための苦労を重ね、屯所は67年6月、寺から約500メートル南の不動堂村へ移った。費用は西本願寺が負担した。

 不動堂村屯所には、表門、高塀、長屋、近藤勇や土方歳三ら幹部の居間、馬屋などのほか30人が一度に入れる風呂もあり、大名屋敷に匹敵する構えだったという。伏見奉行所に引き払うまでの約半年、使われた。

過去の著書でも推定されていた
 屯所の所在地をめぐっては様々…(以下有料版で,残り687文字)

朝日新聞 2020年9月13日 8時00分
https://www.asahi.com/articles/ASN945DS9N94PTFC00S.html


新選組の拠点、やっぱりここだった 京都のホテル付近の続きを読む

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