理系にゅーす

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人骨

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1: 2016/07/07(木) 02:26:01.02 ID:CAP_USER9
日本人 いつどこから
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20160624002804_comm.jpg

 日本人の祖先が日本へ渡ってきたルートや時期が、遺跡に残された石器や人骨の研究で絞り込まれてきた。約3万8千年前以降に、東アジアの各地から三つの道をたどってきたようだ。黒潮が流れる海を越えてきた人たちもいる。

 いま世界中にいる現生人類(ホ◯・サピエンス)は約20万年前にアフリカで誕生し、約6万年前から世界へ拡散しはじめ、その後、東南アジアやバイカル湖付近へ到達した。日本へは、いつ、どこから渡ってきたのか。

 遺跡や化石、遺伝子などの研究から、定説となってきたルートは三つ。朝鮮半島から対馬経由で西日本に入る「対馬ルート」、シベリアからサハリン経由で北海道へ南下した「北海道ルート」、そして台湾付近から琉球列島への「沖縄ルート」だ。

 対馬ルートで渡ってきた時期について、首都大学東京の出穂雅実准教授(考古学)は「約3万8千年前」と絞り込む。

 地球は約7万年前から約1万年前まで寒冷な氷期になり、海面が今よりも低かった。3万年前より古い国内の遺跡のうち、「古本州島」として陸続きになっていた九州、四国、本州の各地から条件がよいものを厳密に調べたところ、最も古いのが約3万8千年前で、それ以降、急に増えていた。朝鮮半島とは海で隔てられていたが、対馬などを伝っていけば目視しながら渡ることができた。

 北海道ルートはシベリアまで陸続きだった。出穂さんによると、約2万6千年前以降の北海道の遺跡から見つかる「剥片(はくへん)石器群」と「細石刃(さいせきじん)石器群」がシベリアのものと似ており、生活が共通していたことがうかがえるという。「氷期で最も寒かった2万4千年前からの2千年間、シベリアに遺跡がほとんどない。南下して北海道へ避難してきた可能性もある」

 人類のDNA解析データを調べた山梨大の安達登教授(人類遺伝学・法医遺伝学)も「シベリアから南下したと考えられる」と話す。北海道の縄文時代の人骨と共通する遺伝子型が、現代の東シベリアの先住民に多く見られる一方、朝鮮半島の現代人には非常に少なく、台湾や東南アジアには見られなかったからだ。

■知力生かし航海か

 沖縄ルートは難関だ。国立科学博物館(科博)の海部陽介・人類史研究グループ長によると、渡ってきたのは「3万年以上前」。那覇市山下町の遺跡で約3万6千年前、沖縄本島南部の八重瀬町港川や石垣市白保で2万年以上前の人骨が見つかっている。白保の人骨のDNAを解析した科博の篠田謙一・人類研究部長は「今の東南アジアに特徴的な遺伝子型を持っている。南方から北上した人たちが白保に到達したと考えられる」。

 しかし、琉球列島最西端の与那国島と台湾の距離は最短でも約110キロある。東京大の横山祐典教授(古気候学・地球化学)によると、当時の日本周辺の海面は今より50~60メートル低かったが、このあたりの海の距離は現在と大差がなかったという。大陸と陸続きだった台湾から舟で渡るとしても、間を北上する黒潮に流されるので、航行距離はもっと長くなる。


続きはソースで

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引用元: 【話題】「対馬ルート」、「北海道ルート」、「沖縄ルート」…日本人の祖先、いつどこから来た? 定説の3ルートとは★5©2ch.net

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1: 2016/07/02(土) 09:51:50.55 ID:CAP_USER
東アジア最大級か=石垣島の旧石器遺跡―約2万年前の人骨、十数人分・沖縄 (時事通信) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160702-00000008-jij-sctch
http://amd.c.yimg.jp/amd/20160702-00000008-jij-000-3-view.jpg


 沖縄県・石垣島(石垣市)で2007年、新石垣空港の建設に伴い見つかった旧石器時代の遺跡「白保竿根田原洞穴」の発掘調査が今月終了する。これまでに発見された人骨片は約1000点で、男女十数人分に上る。最も古い物は約2万4000年前で、年代を直接推定できた人骨では国内最古。発掘に携わる元琉球大准教授の土肥直美さんは「東アジア最大級の旧石器人類遺跡」と評価している。 

 人骨の形態やDNAなどの分析が進めば、ユーラシア大陸を移動して沖縄にたどり着いた当時の人々の暮らしぶりが明らかになると期待される。沖縄県立埋蔵文化財センターの仲座久宜調査班長は「12年度から5カ年の調査は終わるが、遺跡は現場で保存される。今後の活用は石垣市教育委員会や文化庁と検討したい」と話している。

 石灰岩が浸食されてできた洞穴は、発掘が進んだ現在は露天のくぼ地になっている。6月30日の調査では、すぐ近くの滑走路をジェット機が爆音を立てて離着陸する中、研究者らが腹ばいになって岩陰の奥に手を入れ、約2万年前の腕や肩などの骨の断片を土から慎重に取り上げた。年代測定やDNA分析に必要な骨内部のコラーゲンが劣化しないよう、すぐ袋に入れ密封した。

 土肥さんは「骨は化石化して重く、手に持つと何とも言えない。掘り出しながらわくわくする。人類学者として幸運だ」と話す。人骨片は多数出たが、生活ぶりを示す石器などは見つかっていないため、12年に学会で「洞穴が墓に使われていた可能性がある」と発表したが、はっきりしない。

 国立科学博物館の河野礼子研究主幹は頭骨のX線コンピューター断層撮影(CT)を進めており、顔の復元を目指している。土肥さんは「体格を分析し、どういう筋肉の使い方をしていたか分かれば、当時の生活を知る情報になる」と語る。

 遺跡の約2万年前の人々が縄文人の直接の祖先に当たるか、今後解明する必要がある。同博物館の海部陽介人類史研究グループ長らは、3万年前の人類が大陸と地続きだった台湾から舟で沖縄の島々に渡ったと推定。今月中旬、与那国島から西表島まで草舟で航海する実験を行う。

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引用元: 【考古学】東アジア最大級か=石垣島の旧石器遺跡―約2万年前の人骨、十数人分・沖縄 [無断転載禁止]©2ch.net

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1: 2016/06/07(火) 18:01:59.54 ID:CAP_USER
<鎌倉>古墳時代の箱式石棺墓出土 10代半ば男性埋葬  (毎日新聞) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160607-00000035-mai-sctch


 神奈川県鎌倉市は6日、同市由比ガ浜3の由比ガ浜こどもセンター(仮称)建設地で実施していた長谷小路周辺遺跡の発掘調査で、古墳時代(5~7世紀)の箱式石棺墓(はこしきせっかんぼ)1基が出土したと発表した。10代半ばとみられる男性が体を伸ばしてあおむけに埋葬されていた。同市での箱式石棺墓の出土は初めてで、鎌倉の古墳時代を知る貴重な手がかりという。【因幡健悦】

 市文化財課によると、石棺は長さ235センチ、幅114センチ、深さ45センチで、泥岩の自然石を四角く並べて作られている。石には形を整えたとみられる工具痕(こん)が残されていた。副葬品は見つかっていないが、盗掘の形跡はなく、元々なかったものとみられる。

 県内での箱式石棺墓の出土は、横須賀市や三浦市など海浜部に集中しており、今回で13例目。鎌倉市では、市立御成小学校の改築工事中に、8世紀の郡衙(ぐんが)(役所)とみられる遺構が見つかっているが、古墳時代の資料は少なく、出土した人骨や石棺などは今後、専門家に依頼し、詳しい鑑定が行われる。

 現場は調査終了後に埋め戻され、由比ガ浜こどもセンターの建設工事が進められる。一般向け見学会は12日に実施する。詳細は市ホームページで。

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 ※画像はイメージで本文と関係ありません

引用元: 【考古学】<鎌倉>古墳時代の箱式石棺墓出土 10代半ば男性埋葬 [無断転載禁止]©2ch.net

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1: 2016/01/21(木) 07:48:34.22 ID:CAP_USER.net
1万年前、集団で争いか=◯害された人骨多数―ケニア (時事通信) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160121-00000012-jij-sctch

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 アフリカ・ケニアのトゥルカナ湖近くで、約1万年前に狩猟採集民の集団同士が争い、こん棒ややりなどで◯害されたとみられる人骨が少なくとも27人分見つかった。
英ケンブリッジ大などの国際研究チームが20日付の英科学誌ネイチャー電子版に発表した。

 農耕が始まると、土地や収穫物をめぐる争いが増えるが、狩猟採集時代の集団的な争いの跡は珍しい。
人骨の発掘場所は当時の湖岸付近で、水や魚介類などの食料を得やすい場所だったとみられる。
縄張りや食料などをめぐる争いか、出合い頭の偶発的な戦いかは不明だが、人類の戦争の起源を考える手掛かりになるという。

 27人のうち子供が6人おり、大人は男女8人ずつで性別不明が5人だった。
埋葬された形跡はなく、大人10人のほぼ全身がそろった骨格には、こん棒などで殴られて骨折したり、やりや矢を受けたりした跡が見つかった。

 男性1人の頭骨には、やりの先か矢尻とみられる鋭い黒曜石があった。女性のうち1人は妊婦で、手足を縛られて◯害されたとみられる。胎児の骨も見つかった。 

引用元: 【考古学】1万年前、集団で争いか=殺害された人骨多数―ケニア

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1: 2016/01/22(金) 07:51:09.47 ID:CAP_USER.net
古代ローマ期の英国に中東から来た男、剣闘士か | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/012100022/


 英国イングランド北部に位置する町ヨークは、かつてローマ帝国が辺境に建設した主要な植民地の一つだった。
この地にあるローマ時代の墓地から出た人骨を分析した結果、当時のヨークでは地元出身者だけでなく、はるか遠方からの移住者も行き交っていたことが分かった。
(参考記事:「イングランド、地中に眠る騎士の財宝」)

 研究成果は、1月19日付の科学誌「ネイチャー・コミュニケーションズ」に掲載された。
アイルランドにあるダブリン大学トリニティ・カレッジの遺伝学者ダン・ブラッドリー氏らの研究チームは、墓地から見つかった7つの頭骨にある、内耳を収める高密度の骨からDNAを採取して分析。
その結果、6人には現在のウェールズに住む人々と一致するDNAがみられた。だが残る1人の出身地は、研究者たちにとって予想外だった。ずっと遠い、ローマ帝国の反対側だったのだ。

「遺伝的に最も近いのはパレスチナかサウジアラビア出身の人々です」とブラッドリー氏は話す。「ヨーロッパ人でないことは間違いありません」

 DNA分析の裏付けを取るため、英レディング大学のグンドゥラ・ミュルドナー氏は、人骨の歯に残った化学的痕跡を詳しく調べた。
すると、ウェールズ人に近い6人と、残りの1人は明らかに異なっていた。

「この『中東から来た男』の違いは際立っています。この人物は暑く乾燥したどこかの地からここへ移ってきました」とミュルドナー氏は話す。
「最も考えられるのはナイル川周辺か、それに近い環境の場所でしょう。正確に特定することはできませんが、中東のどこかです」

 碑銘や文献史料、その他の証拠から、ローマ帝国では上流階級の人々がしばしば帝国内を移り住んでいたことが分かっている。
ヨークには、象牙の腕輪を付けたローマ時代のアフリカ系女性も葬られているほどだ。(参考記事:「古代ローマ、女剣闘士は実在した?」)

 ヨークの人骨はこれまでにも注目を集めていたが、ブラッドリー氏らの研究はその理解をさらに進めた。今回分析されたものを含め、多くの人骨が2004年に出土。
彼らが埋葬されていた墓地は、かつてエボラクムと呼ばれた都市の外れに当たる。ローマ軍の要塞を備えたエボラクムは、1800年前のローマ属州ブリタニアでは屈指の植民地だった。

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引用元: 【考古学】古代ローマ期の英国に中東から来た男、剣闘士か 遺骨のDNAを分析、古代ローマの国際色を物語る

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1: 2015/08/19(水) 18:32:30.07 ID:???.net
新石器時代に残虐な集団暴力行為、独で発見の人骨示唆 研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
http://www.afpbb.com/articles/-/3057713

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http://afpbb.ismcdn.jp/mwimgs/b/2/280x/img_b2c624d7145d7d6be2968ddc6a53150667312.jpg


【8月19日 AFP】新石器時代のものと見られる集団墓地から発掘の人骨26体から、約7000年前の争いが恐ろしく残虐なものであったことが示唆されたとする研究論文が17日、発表された。
集団墓地はドイツで見つかった。

 米科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences、PNAS)に掲載された論文によると、この発見は、新石器時代初期において、集団的な暴力行為が重要な役割を果たしていたとする説を新たに裏付けるもので、線形陶器文化の衰退の原因となった可能性もあるとしている。

 古代の集団墓地をめぐっては、専門家の間では激しい議論が交わされてきた。またこのような遺構が見つかることはきわめてまれだという。

 最近では、2006年にドイツの道路工事現場から見つかっている。

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(c)AFP

引用元: 【古人類学】新石器時代に残虐な集団暴力行為、独で発見の人骨示唆

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