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歴史

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1: 2018/01/11(木) 22:12:33.54 ID:CAP_USER
新しい年、戌(いぬ)年を迎えました。私たちに最も身近な動物イエイヌですが、進化史上いつごろ登場し、人間にペット化されたのかは、実はまだよくわかっていません。
研究者はさまざまなアプローチで調査していますが、起源と推定された時期は「13万5千年前」から「1万1千年前」まで、大きな幅があるといいます。

 オオカミから枝分かれしたとみられるイエイヌは、いつどのように人間と共生し始めたのか。
そしてネアンデルタールなどさまざまな人類が滅んでいく中、わたしたちの祖先であるホ◯・サピエンスだけが生き残ったことが、実はイエイヌの存在と関わりがなかったか ── 。

 古生物学者の池尻武仁博士(米国アラバマ自然史博物館客員研究員・アラバマ大地質科学部講師)が、最新の研究などを交えながら、イエイヌ進化史の謎を整理します。

〈人類の進化とイエイヌ出現の意義〉

 2018年戌(いぬ)年。新年早々、初夢のかわりにイマジネーションを少し働かせてみた。

 進化の歴史において「もし」イヌが太古の昔に出現しなかったとしたら。
現在、我々が当たり前のように享受している生活に、何か大きな違いが起こらなかっただろうか?

 「イヌなどいなくても特に違いはない」こんな声が聞こえてきそうだ。

 もし「人類最大の友」(Men’s best friends)と呼ばれるイヌたちの存在がなければ、現在へと受け継がれてきた文明の発展が「不可能だった」といえば、大げさだと思われるだろうか?
イヌの存在なくして、初期人類(ホ◯・サピエンス)は過酷な環境の変化を、生き延びることが出来なかった可能性はなかっただろうか?

 歴史を語る時、そして生物に長大な進化を探求する時に、「もし」(IF)という仮定を設けるのはルール違反だろうか?
このような建前や直感にもとづくアイデアは、学術論文において、研究者は基本的に述べることができない。
はっきりしたデータなどによって裏づけをとることができないからだ。

 しかしこうした思考プロセスは、特に研究の初期段階において研究者はよく行うものだ。
時に新しいアイデアがひらめくこともある。
そして、生物進化の真髄や核心にすんなりと近づくことがあるあかもしれない。

 さて、イエイヌ「Canis familiaris」(=Canis lupus familiaris)は、進化史上、いつ(WHEN)、どこで(WHERE)現れたのか? そしてペット化または家畜化は、具体的にどのように(HOW)はじまったのか?

 イヌは現在、ネコとともに人間にとって「最も身近な動物」のタイトルを与えていいだろう。
しかし、イエイヌの起源と初期進化には、まだまだいろいろ解き明かされていない謎が多く残されている。
ダーウィンが熱心に研究テーマとして取り上げて以来、進化学者・生物学者・動物行動学者そして心理学者たちによって、今日に至るまで、活発な研究が行われている。
これだけ周りにあふれかえっている存在であるにもかかわらず、我々はいまだに生物の神秘さ・不思議さに魅せられている。

 イヌの進化研究に挑むとき、その窓口は広くたくさんのテーマから踏み入ることができる。
その中でも、今回はもっとも重要と考えられる「イエイヌの起源」に的を絞って紹介してみたい。
はたしてイヌは、進化史上、いつ初めて現れたのだろうか?

続きはソースで

関連ソース画像
https://wordleaf.c.yimg.jp/wordleaf/thepage/images/20180109-00000006-wordleaf/20180109-00000006-wordleaf-093d41923e79c5b29b5e45ff48e086577.jpg

THE PAGE
https://thepage.jp/detail/20180109-00000006-wordleaf
images


引用元: 【古生物】ネアンデルタール人はイヌの価値気づかず絶滅?イヌ家畜化はいつ始まったか

ネアンデルタール人はイヌの価値気づかず絶滅?イヌ家畜化はいつ始まったかの続きを読む

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1: 2018/01/01(月) 09:14:52.65 ID:CAP_USER
桜井云孟(さくらい・ともたけ)さん(78)
 社会教育協会などが主催する歴史能力検定の1級に、10回合格すると得られる「大博士」の称号。
6年前の日本史につづき、世界史でも獲得した。

1997年に始まり、延べ約50万人が受けた検定史上、初の快挙だ。

 歴史の授業が好きだった。高校では全国模試の日本史、世界史で満点を取り、大学では経済史のゼミに入った。

教授から研究の道を勧められたが、歴史は広く学ぼうと「趣味」で続けることに。

続きはソースで

画像:歴検受験者らに講演する桜井云孟(ともたけ)さん=東京都千代田区
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20171227003256_commL.jpg

朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASKDG56FTKDGUTNB010.html
ダウンロード


引用元: 【歴史】〈初の快挙〉歴史検定初の日本史・世界史「大博士」を獲得

【歴史】〈初の快挙〉歴史検定初の日本史・世界史「大博士」を獲得の続きを読む

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1: 2017/12/24(日) 03:59:59.68 ID:CAP_USER
類の歴史は、言ってみれば「失敗の歴史」だ。たった一つの選択の誤りが、国や民族の行く末、さらには世界の運命を変えてしまったことさえある。歴史上、少なからぬ人々が、二者択一の選択問題を間違えてしまった。
それらの判断の多くは、そのときには「一番良い考え」に思えたものばかりである。

 ナショナル ジオグラフィックの書籍『失敗だらけの人類史』は、そのような歴史的な「失敗」の数々を取り上げ、何を間違ったのか、その結果どうなったのかを解説する本だ。
ここでは同書から、「象でアルプスを越えた英雄」として有名な名将ハンニバルの物語を紹介したい。
傲慢さと性急さから判断を誤り、ローマ征服という野望を達成できなかった人物である。

〈ローマとの戦い〉

 ハンニバルは紀元前247年、ローマによる征服の危機に瀕していたカルタゴ(現在のチュニジアの首都、チュニスの近く)で生まれた。
偉大な交易国にして海洋国家だったローマは、海上でカルタゴ人と渡り合う戦法を編み出し、カルタゴ領だったシチリア、コルシカ、サルディニアの各島を手中に収めていた。

 10歳になったハンニバルはカルタゴの将軍である父ハミルカルに連れられスペインのカルタゴ領に渡る。
そこでハミルカル将軍は、現在のカルタヘナを含む新しい領土を次々に獲得。スペインで成長したハンニバルは、イベリア人の王女と結婚した。

 ハミルカルの死後しばらくして、ハンニバルは22歳の若さでスペインにおけるカルタゴ軍の司令官に選出された。
そして大胆にもスペイン西部の都市サマランカを攻め、これを占領。
次いで、イベリア半島をすばやく横断してローマの主要都市の一つサグントゥムを包囲、陥落させる。
これを受け、ローマはカルタゴに宣戦布告、第二次ポエニ戦争が始まった。

続きはソースで

図:アルプス山脈を越えるハンニバル軍を描いた19世紀の木版画
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/121100020/121100001/01_m.jpg?__scale=w:450,h:519&_sh=0300df0c90

ナショナルジオグラフィック日本版サイト
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/121100020/121100001/
ダウンロード (8)


引用元: 【歴史学】〈名軍師〉残念な英雄ハンニバル、「象でアルプス越え」の失策度

〈名軍師〉残念な英雄ハンニバル、「象でアルプス越え」の失策度の続きを読む

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1: 2017/12/11(月) 12:11:49.47 ID:CAP_USER
 福岡市博多区の仲島遺跡で、2世紀前半(弥生時代後期)に中国・後漢で製作されたとみられる銅鏡が完全な形で見つかった。
市によると、弥生後期の銅鏡が割れていない状態で発掘されるのは珍しく、福岡平野では初めてという。

 銅鏡は直径11・3センチで「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」と呼ばれるタイプ。
コウモリのような文様に、子孫繁栄を意味する「長宜子孫」の4文字が施されている。

続きはソースで

関連ソース画像
http://www.sankei.com/images/news/171209/wst1712090051-n1.jpg

産経新聞
http://www.sankei.com/west/photos/171209/wst1712090051-p1.html
images
※画像はイメージで本文と関係ありません


引用元: 【考古学】後漢の銅鏡、完全形で出土 福岡仲島遺跡、2世紀前半

後漢の銅鏡、完全形で出土 福岡仲島遺跡、2世紀前半の続きを読む

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1: 2017/12/11(月) 12:35:06.89 ID:CAP_USER
イスラエル、エルサレム旧市街にある聖墳墓教会は、イエス・キリストの墓とされる場所に立つ教会だ。
歴史的記録によると西暦326年、ローマ人が発見した墓を取り囲むように、教会が建てられたという。

 しかし、この教会はこれまで何度も攻撃され、火災や地震の被害を受けてきた。
西暦1009年には完全に破壊され、その後再建された。
そのため、ここが本当に1700年前にローマ皇帝の代理人がキリストの墓と特定した場所なのかどうか、
現代の学者たちは疑問視していた。


 今回、教会の中にある埋葬用の洞窟(横穴)から採取された残留物が科学分析にかけられ、その結果がナショナル ジオグラフィックにもたらされた。
それによって、墓はやはり古代ローマ時代にはすでにあったことが確認された。

 分析にかけられたのは、本来の墓とされている岩とそれを覆っていた大理石の板の間から採取された漆喰で、西暦345年のものと測定された。

 これまで、墓の内外から発見された建築的証拠は、最古のものでも11~12世紀の十字軍時代のものと測定され、墓が1000年以上古いことを示す証拠は何もなかった。

 新約聖書には、ナザレのイエスとして知られるユダヤ人が、エルサレムで西暦30年か33年に十字架刑に処せられたと書かれている。
この墓がその人物を葬った場所であるかどうかを証明するのは考古学的に不可能だが、今回の年代測定の結果によって、墓の構造物はローマ皇帝初のキリスト教徒であったコンスタンティヌスの時代のものであることがわかった。

2016年10月、墓を取り囲むようにして建設されたエディクラと呼ばれる聖堂の大々的な修復工事を行うため、墓は数世紀ぶりに開かれた。
作業に当たったのは、アテネ国立技術大学の学際チームである。
 この時、エディクラの内部で数カ所から漆喰が採取され、年代測定を行うため研究所に運ばれた。
その結果は、エディクラ修復プロジェクトを率いたチーフ科学監督のアントニア・モロポーロー氏よりナショナル ジオグラフィックへ提供された。

続きはソースで

関連ソース画像
https://article-image-ix.nikkei.com/https%3A%2F%2Fimgix-proxy.n8s.jp%2Fcontent%2Fpic%2F20171209%2F96958A9F889DE0E6E2E5EBE7EAE2E1E2E3E3E0E2E3E5E2E2E2E2E2E2-DSXZZO2408491030112017000000-PN1-3.jpg?auto=format%2Ccompress&ch=Width%2CDPR&ixlib=php-1.1.0&w=640&s=3e0bc8c1adbb57df42fca5dbcf9d9268
https://article-image-ix.nikkei.com/https%3A%2F%2Fimgix-proxy.n8s.jp%2Fcontent%2Fpic%2F20171209%2F96958A9F889DE0E6E2E5EBE7EAE2E1E2E3E3E0E2E3E5E2E2E2E2E2E2-DSXZZO2408494030112017000000-PN1-1.jpg?auto=format%2Ccompress&ch=Width%2CDPR&ixlib=php-1.1.0&w=640&s=e9a15ad365157b60917e34167e18f365

日経スタイル
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO24079580Q7A131C1000000
ダウンロード (2)


引用元: 【考古学】「キリストの墓」の年代判明 本当に古代ローマだった

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1: 2017/11/30(木) 02:50:08.09 ID:CAP_USER
イスラエル、エルサレム旧市街にある聖墳墓教会は、イエス・キリストの墓とされる場所に立つ教会だ。
歴史的記録によると西暦326年、ローマ人が発見した墓を取り囲むように、教会が建てられたという。

 しかし、この教会はこれまで何度も攻撃され、火災や地震の被害を受けてきた。
西暦1009年には完全に破壊され、その後再建された。
そのため、ここが本当に1700年前にローマ皇帝の代理人がキリストの墓と特定した場所なのかどうか、
現代の学者たちは疑問視していた。

 今回、教会の中にある埋葬用の洞窟(横穴)から採取された残留物が科学分析にかけられ、その結果がナショナル ジオグラフィックにもたらされた。
それによって、墓はやはり古代ローマ時代にはすでにあったことが確認された。

分析にかけられたのは、本来の墓とされている岩とそれを覆っていた大理石の板の間から採取された漆喰で、西暦345年のものと測定された。

 これまで、墓の内外から発見された建築的証拠は、最古のものでも11~12世紀の十字軍時代のものと測定され、墓が1000年以上古いことを示す証拠は何もなかった。

 新約聖書には、ナザレのイエスとして知られるユダヤ人が、エルサレムで西暦30年か33年に十字架刑に処せられたと書かれている。
この墓がその人物を葬った場所であるかどうかを証明するのは考古学的に不可能だが、今回の年代測定の結果によって、墓の構造物はローマ皇帝初のキリスト教徒であったコンスタンティヌスの時代のものであることがわかった。

続きはソースで


画像:大理石の下の破片を除去する修復作業員。割れた大理石の間からのぞくのは、イエスのからだが安置されたと信じられている岩の表面。
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/112900463/01.jpg?__scale=w:500,h:333&_sh=04d0f20840

ナショナルジオグラフィック日本版サイト
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/112900463/
images


引用元: 【考古学】〈エルサレムの聖墳墓教会の石墓〉独占:「キリストの墓」の年代を科学的に特定

〈エルサレムの聖墳墓教会の石墓〉独占:「キリストの墓」の年代を科学的に特定の続きを読む
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