理系にゅーす

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皇帝

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1: 2019/05/11(土) 19:36:59.48 ID:CAP_USER
【5月11日 AFP】
約2000年前に建てられたローマ皇帝ネロ(Nero)のドムス・アウレア(Domus Aurea、黄金宮殿)で、修復作業中にきめ細かなフレスコ画で飾られた秘密の部屋が見つかった。作業を監督するコロッセオ考古学公園が10日、AFPに明らかにした。

 考古学チームは、秘密の部屋につながる穴を偶然発見。部屋は、ケンタウロスやギリシャ神話の神パン(Pan)などの神話に関する絵で彩られていたという。

 チームはこの部屋を「サーラ・デッラ・スフィンジェ(Sala della Sfinge、スフィンクスの間)」と命名。大発見だと述べた。

 この発見は「紀元60年代のローマの雰囲気」を垣間見ることを可能とするもの。部屋はとても華やかで、保存状態も非常に良好だという。

続きはソースで

(c)AFP

https://afpbb.ismcdn.jp/mwimgs/a/0/-/img_a0ae6ad7f2a9d06148a4f5e69b33c464220335.jpg
https://afpbb.ismcdn.jp/mwimgs/6/b/-/img_6b8f408480857785dc4e4b990fd715c4396052.jpg

https://www.afpbb.com/articles/-/3224521

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引用元: 【考古学】ローマ皇帝ネロの黄金宮殿、「秘密の部屋」を発見[05/11]

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1: 2019/04/02(火) 18:47:36.51 ID:CAP_USER
政府の説明によれば、新元号『令和』の出典は万葉集とのことですが、ネットでは中国の文人・張衡が作った漢詩『帰田賦』こそが真の出典なのではないかと言われています。確かに見比べると、ほぼ同じという印象。万葉集の時代では、漢文は知識人にとっては教養で、オマージュした歌を作るのは普通のことだったのだそうな。

■Wikipedia➖張衡 (科学者)経歴

没落した官僚の家庭に生まれた。祖父張堪は地方官吏だった。青年時代洛陽と長安に遊学し、太学で学んだ。永元14年(102年)、南陽郡守の幕僚(南陽郡主簿)となった。

続きはソースで 

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=3926998

■「文選正文. 3」(国立国会図書館デジタルコレクションより)
https://pbs.twimg.com/media/D3CdavsUgAIfqFj.jpg
https://image.itmedia.co.jp/news/articles/1904/01/ki_1609376_reiwa_monzen02.jpg

https://matomame.jp/user/FrenchToast/4e69447a2e42ea73801e

ダウンロード (9)


引用元: 【令和】万葉集の令和の元ネタ・張衡「帰田賦」は、愚昧な後漢の安帝と腐敗政治について嘆いた漢詩だった[04/02]

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1: 2019/01/02(水) 11:01:36.07 ID:CAP_USER
約2千年前に中国から伝わり、福岡市東区の志賀島で見つかったとされる国宝の金印「漢委奴国王」を実際に作ることで、謎に満ちた当時の製法を解き明かす試みを、地元の研究者らが進めている。10月中旬に同市で開催予定のシンポジウムで、最新の研究成果とともに報告する。

 金印は江戸時代後期の1784年、志賀島で作業中の農民が見つけたとされる。印面は2・3センチ四方で、重さ約100グラム。中国の歴史書「後漢書」に記されている、紀元57年に後漢の光武帝が倭(日本)の奴国からの使者に授けた印と同じだとする説が有力だ。

 製作に取り組むのは、鋳造や考古学の専門家ら約20人からなる「九州鋳金研究会」。印の鋳造技術に関する江戸時代の文献をもとに、約2千年前に存在したと考えられる素材を用いた工程を探った。


続きはソースで


https://www.nikkei.com/content/pic/20180908/96958A9F889DE1E7E3E6E0E5E2E2E2EAE2EBE0E2E3EA93918AE2E2E2-DSXMZO3514268008092018ACX001-PN1-4.jpg

https://www.sankei.com/west/news/180909/wst1809090019-n1.html

images


引用元: 【金印】「漢委奴国王金印」作ります 謎の製法探る研究者

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1: 2018/04/24(火) 00:05:27.24 ID:CAP_USER
■今や「幻のサル」、2200年前の文献に「おかしな鼻に長い尾の動物」の記述、中国

 11世紀の中国に、陸佃(りくでん)という学者がいた。
陸佃は国内に生息する動物、鳥、昆虫、樹木について記録した百科事典を著し、そのなかで「四川の山に生息し、黄金色をしたふわふわの尾を持つ」というサルの記述を残している。
その骨は薬に使われ、皮は上質の敷物や座布団になるという。

 陸佃の書いたサルとは、キンシコウのことである。
シシバナザルの一種で、シセンシシバナザルとも呼ばれる。
美しい並み、鮮やかな青色の顔に小さな鼻、そして薬効があると信じられていたことから、中国の皇帝たちはその独特の魅力に取りつかれ、その姿を目にした人々は数々の文献にこのサルのことを書き残した。

 それから1000年後、霊長類学者らはこれら古代の文献を紐解き、シシバナザルについて書かれた記録を拾い集めた。
シシバナザルの昔の分布状況を知り、環境の悪化によって現代ではそれがどう変わったかを調べるためである。
その結果が2017年9月に生物地理学の専門誌「Diversity and Distributions」に掲載された。

 このような研究を可能にしたのは、中国が2000年にわたって積み上げてきた体系的な記録の山である。
詩、公報、年代記などに残された記録は、シシバナザルだけでなく、ゾウやテナガザルの歴史、イナゴの大量発生の周期を知るためにも用いられてきた。

 文献からは当時のシシバナザルの正確な数まではわからないが、かつては広い範囲に分布していたシシバナザルが時代とともにすむ場所を失い、人里離れた山奥へと追いやられていった様子が描かれている。

 サルに関する最古の記録は、紀元前3世紀に遡る。
「爾雅(じが)」という中国の辞典に「おかしな鼻に長い尾の動物」と書かれている。

続きはソースで

画像:キンシコウ
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/c/041900082/ph_thumb.jpg
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/c/041900082/ph_02.jpg
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ナショナルジオグラフィック日本版サイト
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/c/041900082/
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引用元: 【動物】絶滅危惧サル「キンシコウ」、かつては広く生息、古代中国の文献で解明[04/20]

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1: 2017/12/30(土) 12:31:34.55 ID:CAP_USER
【12月26日 AFP】
中国で2002年に見つかった大量の木簡の中に、秦の始皇帝(Qin Shihuang)が国内各地で不死の薬を探すよう命じた布告や、それに対する地方政府からの返答が含まれていることが、最新の調査で明らかになった。

 中国国営の新華社(Xinhua)通信が24日に伝えたところによると、3万6000枚に上る木簡は湖南省(Hunan)の井戸の底から発見されていた。
同省の考古学者らが調べたところ、「不老不死の薬」を探せとの始皇帝の命令が記されていたものがあった。
布告は辺境の地域や僻(へき)村にも通達されていたという。

 また、この指示に当惑した様子がうかがえる地方政府からの返信が書かれたものも確認された。
例えばある村は、そのような妙薬はまだ見つかっていないが引き続き調査していると報告。
別の村は、地元の霊山で採取した薬草が不老不死に効くかもしれないと返している。

続きはソースで

(c)AFP

画像一覧:秦の始皇帝陵から発掘された兵馬俑。西安で
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AFP
http://www.afpbb.com/articles/-/3156672
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引用元: 【考古学】「不老不死の薬探せ!」 秦の始皇帝の命令、木簡から確認

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1: 2016/10/17(月) 08:01:30.15 ID:CAP_USER
兵馬俑の職人、ギリシャ人芸術家が訓練か | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/101400388/
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 中国北部の土の中から謎のやきものの像が最初に発見されてから、今年で40年あまりになる。考古学者たちは、これらの像が、中国最初の皇帝である秦の始皇帝(紀元前259年~紀元前210年)の陵墓の副葬品であることを明らかにしたが、土の中に隠されていた秘密はそれだけではない。発掘調査からは歴史書を書き換えるような大発見もあったし、外国人の芸術家が中国人の職人を訓練したとする大胆な新説も生まれた。

 多くの王国に分かれていた中国を初めて統一し、氏族を基にした封建制に終止符を打った秦の始皇帝は、中国史の中でひときわ大きく輝いている。彼が建設した万里の長城は、その強大な権力の象徴だ。(参考記事:「世界最古の十進法の計算表、中国で発見」)

 しかし、始皇帝の最も驚くべきプロジェクトが初めて明らかになったのは、1974年のことだった。秦朝の首都だった咸陽(かんよう)の近くで井戸を掘っていた農夫たちが、土の中から奇妙な像をいくつも掘り出したのである。その後の発掘調査により、これらは皇帝の陵墓を永遠に守護するために周囲に埋められた兵馬俑の一部であることが明らかになった。俑とは、死者を守るために共に埋められる人形のことだ。発掘された3つの巨大な坑には、数千体の兵馬俑が整列していた。兵馬俑の造形は、それまでに中国で発掘されていたどの俑とも違っていたため、研究者たちを大いに悩ませた。兵馬俑を製作した芸術家たちは、どうしてこんなアイディアを思いついたのだろうか?(参考記事:「色鮮やかな兵馬俑」)

 謎を解くためのヒントになりそうな発見もあった。芸人をかたどった「雑技俑」や、青銅製のカモ、ハクチョウ、ツルの像には、ギリシャの影響が見てとれる。そして、中国北西部の遺跡から出土した人骨からはヨーロッパ人のDNAが確認されているのだ。

 一部の専門家は、これらの事実を考え合わせ、兵馬俑は外国の芸術家からインスピレーションを得て作られたのではないかと唱える。マルコ・ポーロより1500年も前に、ギリシャ文化の影響を受けた西アジアから中国にやってきた芸術家が、始皇帝陵の副葬品を製作する中国の職人たちを指導していたのかもしれないというのだ。(参考記事:「2500年前の墓から完全な大麻草13本を発見」)


見えてきた巨大陵墓

 科学者たちは、リモートセンシング、地中レーダー、ボーリング調査などを用いて、始皇帝陵がこれまで考えられていたよりはるかに大きく、その広さは約100平方キロメートルと山手線の内側に匹敵することを明らかにした。中心部には始皇帝の墓を土で覆った巨大な墳丘があるが、まだ調査が行われたことはない。遺跡には、始皇帝以外にも多くの人々が埋葬されている。30年におよんだ陵墓の建設中に死亡した職人や労働者(中には鎖につながれた罪人もいた)の遺体を埋葬したらしい集団墓地や、凄惨な後継者争いの物語を伝えているように思われる集団墓地も発見されている。(参考記事:「21世紀中に解明されそうな古代ミステリー7つ」)

続きはソースで

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引用元: 【考古学】兵馬俑の職人、ギリシャ人芸術家が訓練か 広さは山手線の内側に匹敵、姿を見せ始めた巨大陵墓 [無断転載禁止]©2ch.net

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