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豊臣秀吉

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1: 2019/03/28(木) 01:24:43.41 ID:CAP_USER
 豊臣秀吉(1537~98)が、武将加藤清正(1562~1611)に宛てて朝鮮出兵を命じた朱印状が見つかった。愛知県刈谷市の市歴史博物館が27日発表した。「文禄の役」で清正が出兵する直前に出されたものとみられる。

 朱印状は縦21・5センチ、横125・5センチで軸装されている。竜のようなマークが特徴の秀吉の朱印があることや書状の紙質・形状などから本物と断定した。

 清正に対し、「(第1軍の)小西行長らに朝鮮出兵を命じたので、お前も出陣せよ。異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断しないように」と伝える。また、「先に行った者たちが道中で詰まっているので、皆で相談してスムーズに進めるように」という趣旨の秀吉らしい細かい指示もある。

続きはソースで

https://portal.st-img.jp/thumb/4fa313eed1e3382481f2a4a7ab638606_1553699532_l.jpg
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20190327004057_commL.jpg

朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASM3V4RDDM3VOBJB003.html
ダウンロード (1)


引用元: 【歴史】秀吉から清正へ「朝鮮出兵の命令書」、本物発見[03/28]

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1: 2018/11/16(金) 19:38:18.91 ID:CAP_USER
明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」の8日後に、信長の重臣として知られる柴田勝家が織田方に宛てた直筆の書状が新潟県新発田市で見つかりました。光秀の討伐に出遅れた勝家が、当時、京都から大阪に展開していた光秀の居場所を正確に把握できていなかったことがうかがえる内容で、専門家は「本能寺の変直後の勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ」と指摘しています。

今回見つかった書状は、本能寺の変の8日後の天正10年6月10日、今の福井市の居城にいた柴田勝家が、織田方の武将、溝口半左衛門に宛てて書いたものです。

郷土史に詳しい新潟大学の冨澤信明名誉教授が新発田市の溝口家に残る歴史資料の中から見つけました。

書状の冒頭には、「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかりだ」と・・・

続きはソースで

https://res.cloudinary.com/hjnhxxcu5/image/upload/c_fit,h_419,w_800/v1542341072/14805.png
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181116/K10011712961_1811161218_1811161224_01_02.jpg

NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181116/k10011712961000.html
ダウンロード (1)


引用元: 「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる。明智光秀の居場所把握できず?[11/16]

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1: ( ´`ω´) ◆ChahooS3X2 @ちゃふーφ ★ 2013/11/18(月) 04:01:21.91 ID:???0

 豊臣秀吉は実子の秀頼が生まれると、甥(おい)の関白秀次が邪魔になって切腹させた-。
こんな通説に国学院大の矢部健太郎准教授(日本近世史)が疑義を呈し、「秀吉は秀次を高野山へ追放しただけだったが、意図に反し秀次が自ら腹を切った」とする新説を打ち出した。秀次の死をめぐっては、その背景を明確に記した史料が同時代になく、研究者も興味深い説だと評価している。(渡部裕明)

 秀吉の姉の子である秀次は天正19(1591)年、実子のいない秀吉の養子となり、関白を引き継いだ。
しかし秀頼誕生から2年足らずの文禄4(1595)年7月に失脚。高野山へ追放され、同月15日、金剛峯寺の前身である青巌寺で切腹した。

 切腹に至る詳しい事情を物語る同時代の史料はないが、儒学者、小瀬甫庵(おぜほあん)が江戸時代初期に記した太閤記は「切腹命令」という文書を掲載。文書には石田三成ら五奉行が署名し、7月13日の日付がある。

 矢部准教授はこの日付について、「京都から高野山までは約130キロの距離がある。登り坂も厳しく、歩いて3日はかかる。13日に書かれた命令書を持って高野山まで多くの兵を連れて赴き、15日に切腹させるのは難しい」と疑念を示す。

 そこでさまざまな史料にあたり、秀吉が同月12日に高野山の僧、木食応其(もくじきおうご)へあてた書状に着目。そこには「秀次が高野山に住むにあたっては見張り番を付け、料理人や世話係などを用意してほしい」と記されていた。「数日後には切腹させる人に、料理人が必要だろうか。秀吉は秀次を長期間、高野山に住まわせようと考えていたと思う」

 また、秀次切腹の情報を最初に朝廷へ伝えた「御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)」文禄4年7月16日条には、「関白殿 昨十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申す 無実ゆえかくのこと候のよし申すなり」とある。矢部准教授はこの「切らせられ」という記述は、秀吉が「切らせた」のではなく、敬語の「お切りになった」と読むべきだ、と指摘。秀次は高野山での幽閉に耐えられず、身の潔白を証明するために自らの決断で切腹したとみている。(続きはソースで)

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産経新聞 http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/131117/wlf13111720580036-n1.htm



【文化】 “豊臣秀次切腹に新説” 秀吉は命じず、身の潔白訴え自ら切腹か…国学院大准教授が「太閤記」に疑義の続きを読む
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