理系にゅーす

理系に関する情報を発信! 理系とあるものの文系理系関係なく気になったものを紹介します!

大和朝廷

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
1: 2019/01/01(火) 00:05:54.36 ID:CAP_USER
■『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』、日本神話、考古学資料などを、総合的に統計学的手法で分析すれば、99.9%の確率で、邪馬台国は福岡県にあったことが言える。

■和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」

白鳥庫吉(1865~1942年)は、明治期の東京帝国大学(現在の東京大学)を代表する東洋史学者であった。白鳥は1910年に発表した論文「倭女王卑弥呼考」のなかで、『魏志倭人伝』の「卑弥呼(ひみこ)」に関する記事内容と、『古事記』『日本書紀』の「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」に関する記事内容とを比較している。そして、この二つの記事内容について「その状態の酷似すること、何人もこれを否認するあたわざるべし」と述べている。

 白鳥庫吉の見解を受け継ぎ、それを「邪馬台国東遷説」という形で大きく発展させたのは、東京大学の哲学者・和辻哲郎(1889~1960年)であった。和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」は『日本古代文化』(岩波書店、1920年刊)のなかに見える。「邪馬台国東遷説」というのは、邪馬台国は九州に存在し、のちにその勢力を受け継ぐものが東遷して「大和朝廷(やまとちょうてい)」になったとする説である。
和辻哲郎氏(1889-1960年)
 和辻哲郎や、その説を受け継ぐ人たちの「邪馬台国東遷説」の要点をまとめれば、次のようになる。

(1) 卑弥呼のことが神話化し、伝承化したものが天照大御神である。
(2) 九州にあった邪馬台国が、本州の大和に移動した。神武天皇の東征伝承は、その間の事情を伝えるものとみられる。
 和辻哲郎は述べる。『古事記』『日本書紀』の伝える「神武東征」の物語の「国家を統一する力が九州から来た」という中核は、否定しがたい伝説に基づくものであろう、と。
(3) 九州から大和へ移動した時期は、3世紀の後半から、西暦300年前後にかけてのころであろう。

■年代論的根拠

和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」にはその後、年代的根拠がさらに詳しく与えられるようになってきている。

(中略)

■天照大御神のいた場所

「卑弥呼=天照大御神」とすれば、天照大御神のいた場所が、邪馬台国であることになる。邪馬台国についての手掛かりを『古事記』『日本書紀』のなかに、たどることができることになる。

 『古事記』『日本書紀』は天照大御神のいた場所を「高天の原(たかまのはら)」と記す。「高天の原」は、どこだろう。 

 いま『古事記』の上巻、いわゆる神話の巻を取り上げる。『古事記』上巻には「筑紫(つくし)」「日向(ひむか)」「胸形(むなかた)」など、現実的に場所の特定できる地名が現れる。その地名の統計をとる。

 その結果を図示すれば、図3のようになる。圧倒的に多いのが、「九州地方」と「山陰地方」の地名である。『古事記』の主要なテーマは「九州地方」の勢力と、大国主(おおくにぬし)の命(みよ)が治める出雲を中心とする「山陰地方」の勢力との対立図式といえる。いわゆる「出雲の国譲(くにゆず)り」伝承が中心的なテーマといえる。「高天の原」と重なり合うのは、この「九州地方」、特に北九州地方である。
http://tawayama.net/wp-content/uploads/7f0beb52698951740bca688fe0647a4c.jpg

■「平塚川添遺跡」の出現

『古事記』『日本書紀』によれば、高天の原には「天の安の河(あめのやすのかわ)」という河が流れていた。天照大御神と、その弟の須佐の男の命(すさのおのみこと)とがこの河を中において談判をしたり、神々が「天の安の河」の河原で、会議を開いたりしている。

 九州の地図をみれば、現在でも北九州のほぼ中央に「夜須」という地名がある。この北九州の「夜須」の地名は、『日本書紀』や『万葉集』では「安」の字が当てられている。

 筑後川の支流の小石原川は、「夜須川」とも呼ばれる。そして1992年に朝倉市(当時は甘木市といった)を流れる夜須川のすぐ近くから、弥生時代後期の大環濠集落跡として「平塚川添遺跡」が出現した。考古学者の佐原真氏は当時この平塚川添遺跡を「学術的には吉野ケ里に匹敵する遺跡」(朝日新聞)と述べている。


  ■九州と大和の地名の一致 
 地名学者の鏡味完二氏はその著『日本の地名』(角川書店、1964年刊)のなかで、およそ次のようなことを述べている。
「九州と近畿の間で、地名の名付けかたが実によく一致している。これは単に民族の親近ということ以上に、九州から近畿への、大きな集団の移住があったことを思わせる」

 「大きな集団の移住」、これは「邪馬台国東遷説」と重なり合うような考えである。福岡県の朝倉市と奈良県の朝倉の地との周りに、次のような驚くほどの地名の一致を見いだすことができる(地図1参照)。なお、『日本書紀』によれば、福岡県の朝倉市は、第37代斉命天皇の「朝倉の宮(朝倉の橘の広庭の宮)」があった場所であり、奈良県の朝倉の地は、第21代雄略天皇の「朝倉の宮(泊瀬の朝倉の宮)」のあった場所である。

■北九州(北の笠置山から始まって、時計の針の方向と逆に一周すれば)笠置山→春日→御笠山→住吉(墨江)神社→平群(へぐり)→池田→三井→小田→三輪→雲堤(うなで)→筑前高田→長谷山→加美(上)→朝倉→久留米→三潴(みづま)→香山(高山)→鷹取山→天瀬(あまがせ)→玖珠(くず)→上山田→山田市→田原→笠置山

■畿内(北の笠置[笠置山]から始まって同じく時計の方向と逆に一周すれば)笠置(笠置山)→春日→三笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→織田→三輪→雲梯(うなで)→大和高田→長谷山→賀美(上)→朝倉→久米→水間(みづま)→天の香山(高山)→高取山→天ヶ瀬(あまがせ)→国樔(くず)→上山田→山田→田原→笠置山

これら23個の地名は、発音がほとんど一致している。23個の地の相対的位置も大体同じである。驚くほどの一致といってよいであろう。

詳細・続きはソースで

https://ironna.jp/article/4548?p=1
ダウンロード (3)


引用元: 【邪馬台国九州説】は「99・9%」福岡県にあった!ビッグデータが解いた「卑弥呼の墓」の謎 

【邪馬台国九州説】は「99・9%」福岡県にあった!ビッグデータが解いた「卑弥呼の墓」の謎 の続きを読む

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
1: 2015/03/17(火) 16:31:32.00 ID:???*.net
福岡・延永ヤヨミ園遺跡:国内最古級の「導水施設」
【毎日新聞】 2015/03/16 21:29(最終更新 03/17 00:09)

◇3~4世紀中ごろ 近畿の水の祭祀、短期間に九州に

00


九州歴史資料館(福岡県小郡市)は16日、同県行橋市の延永(のぶなが)ヤヨミ園(その)遺跡から九州で初めて出土した古墳時代の水の祭祀(さいし)遺構「導水施設」の木樋(もくひ)が、3世紀中ごろ~4世紀中ごろのものと判明したと発表した。ヤマト政権発祥の地とされる奈良県の纒向(まきむく)遺跡で出土した国内最古の3世紀後半~4世紀初頭のものとほぼ同時期で、近畿で始まった水の祭祀が極めて短期間に九州にも伝わっていたことになる。誕生したばかりのヤマト政権が延永ヤヨミ園遺跡一帯を九州支配の拠点としていたとみる識者もいる。

2011年の調査で出土した木樋は三つの細長い部分からなり、長さ4.2メートル、幅35~70センチ、厚さ4~10.4センチ。一方の端に長さ35センチ、幅30センチと、長さ60センチ、幅35センチの二つの水槽状のくりぬきがあり、もう一方の端まで幅10センチの溝が延びる。放射性炭素年代を測定し実年代に換算した結果、3世紀中ごろ~4世紀中ごろのものと判明した。二つの槽を持つ木樋の実物が出土したのは国内初。

木樋はくいで地面に固定され、周囲には1.7~1.8メートル間隔で柱が4本あった。建物か塀で囲った中で、くりぬき部分に水をためて上澄みを得たとみられる。水の祭祀の意味はよく分かっていないが
▽葬送儀礼や王位継承で用いた
▽浄化した水で首長が地域の繁栄と永遠の命を願った
▽浄水を水田にまき豊作を祈願した--
などの説がある。

続きはソースで

◇導水施設
木樋や木槽などに水を流し、上澄みの浄水を得る古墳時代の施設。木樋の周囲は建物や壁で覆う例が多く、神聖な場所の隔離とみられることから祭祀施設とされる。近畿中心に群馬県など全国13遺跡で確認され、施設をかたどった埴輪や石製品も三重、東京、大分など全国12地点で出土している。

ソース: http://mainichi.jp/feature/news/20150317k0000m040100000c.html
画像: http://mainichi.jp/graph/2015/03/17//20150317k0000m040100000c/image/001.jpg
 (延永ヤヨミ園遺跡(福岡県行橋市)で出土した国内最古級の導水施設木樋=福岡県小郡市の九州歴史資料館で 2015年3月16日、野田武撮影)

引用元: 【考古学】福岡・延永ヤヨミ園遺跡から国内最古級の「導水施設」、3~4世紀中頃のものと判明 [15/03/16]

福岡・延永ヤヨミ園遺跡から国内最古級の「導水施設」、3~4世紀中頃のものと判明の続きを読む

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
1: アルゼンチンバックブリーカー(家) 2013/11/13(水) 12:58:53.12 ID:VMxhZMIgP BE:2157714465-PLT(22223) ポイント特典

http://mainichi.jp/select/news/20131113k0000e040228000c.html
刀匠や研師らの[職人集団]が約1500年前の古墳時代に作られた国宝「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」(埼玉県・稲荷山古墳出土)を約6年半かけて復元した。グループの6人は13日、復元品を県に寄贈。県によると、石こうなどで古墳時代の鉄剣を複製した例はあるが、忠実な復元品は全国初という。

グループ代表の小川盛弘・米メトロポリタン美術館特別顧問と、刀匠の宮入法廣(のりひろ)さんらが2007年に「古代刀剣研究の進展のために」と復元を企画。刀身彫刻師の橋本※巴(しゅうは)さん、研師の藤代興里(おきさと)さんら各分野の職人が賛同し、同年2月に制作が始まった。

1年もあれば完成する見通しだったが、作業を始めると、難題が続出した。まず素材。実物と完全に一致する鉄が分からない。宮入さんが同時代の出土刀や古刀を参考に地金から調整した。また、近現代の日本刀より「鍛え」の回数が少ないことも判明し、鍛えの数を変更。試作は5本に上った。

刀に文字を彫り、金の比率が異なる2種類の合金をはめ込む象眼も難航した。片面だけを彫り進めると、刀の薄さから表面張力が崩れ、大きく反ってしまうため、この作業に1年以上を要した。

仕上げの研磨も、どの砥石(といし)で研ぐべきか、頭を悩ませた。藤代さんらは稲荷山古墳で出土した砥石をX線で調べたほか、鉄剣の研ぎ跡を分析して当時の砥石に似た石を突き止めた。

「復元度は限りなく100%に近い」という鉄剣が完成したのは今年6月。上田清司知事から13日、寄贈の感謝状を受け取った小川さんは「(製剣の技術力の高さから)当時の埼玉は『大先進国』だと分かった。多くの人に見てほしい」と話した。

    ◇

復元品は、14日から埼玉県立さきたま史跡の博物館(同県行田市)で特別公開される。【狩野智彦】

◇金錯銘鉄剣

1968年に埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した全長73.5センチの鉄剣。10年後、保存処理の過程で表に57字、裏に58字の計115字の銘文があることが分かった。銘文は「(471年とされる)辛亥年七月中記す、ヲワケの臣」に始まり、大和朝廷の雄略天皇とされるワカタケル大王に仕えた手柄を記している。

※は王ヘンに秀
16



国宝鉄剣:6年半かけ忠実に復元 埼玉県に寄贈の続きを読む

このページのトップヘ