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帝国

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1: 2019/05/11(土) 19:36:59.48 ID:CAP_USER
【5月11日 AFP】
約2000年前に建てられたローマ皇帝ネロ(Nero)のドムス・アウレア(Domus Aurea、黄金宮殿)で、修復作業中にきめ細かなフレスコ画で飾られた秘密の部屋が見つかった。作業を監督するコロッセオ考古学公園が10日、AFPに明らかにした。

 考古学チームは、秘密の部屋につながる穴を偶然発見。部屋は、ケンタウロスやギリシャ神話の神パン(Pan)などの神話に関する絵で彩られていたという。

 チームはこの部屋を「サーラ・デッラ・スフィンジェ(Sala della Sfinge、スフィンクスの間)」と命名。大発見だと述べた。

 この発見は「紀元60年代のローマの雰囲気」を垣間見ることを可能とするもの。部屋はとても華やかで、保存状態も非常に良好だという。

続きはソースで

(c)AFP

https://afpbb.ismcdn.jp/mwimgs/a/0/-/img_a0ae6ad7f2a9d06148a4f5e69b33c464220335.jpg
https://afpbb.ismcdn.jp/mwimgs/6/b/-/img_6b8f408480857785dc4e4b990fd715c4396052.jpg

https://www.afpbb.com/articles/-/3224521

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引用元: 【考古学】ローマ皇帝ネロの黄金宮殿、「秘密の部屋」を発見[05/11]

ローマ皇帝ネロの黄金宮殿、「秘密の部屋」を発見の続きを読む

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1: 2019/04/24(水) 21:11:45.46 ID:CAP_USER
■なぜ彼らは滅亡寸前まで大宴会を開けたのか、古代アンデス文明

現在のペルーに位置するセロ・バウルは、古代アンデスで最初の帝国と言われる「ワリ」の最南端に作られた、辺境の入植地だった。急峻な山の上に位置し、天然の水源はなく、実用性に乏しい場所だったが、紀元1050年ごろまでのおよそ4世紀にわたり、ぜいたくな饗宴が催されていた。(参考記事:「古代ペルー 深紅の王墓」)

 宴会を開いたのはワリ帝国の有力者たちだ。招かれた客は、隣国ティワナクのライバルや、ワリとティワナクという2大帝国に脅かされていた小さな村々の長たちだった。彼らはモケグア渓谷の景色を楽しみながら、テンジクネズミ、ラマ、魚料理を味わい、古代アンデス発祥のビールであるチチャを酌み交わした。トウモロコシとコショウボクの実を発酵させて作る酒である。

 だが、ワリ帝国が崩壊しつつあった950年余り前に、酒盛りを楽しんだ者たちは、自らお祭り騒ぎに終止符を打つ。

 このとき、ワリ帝国の人々は辺境の入植地から避難するつもりだったらしく、すでに神殿と宮殿を取り壊していた。最後に壊されたのが醸造所だった。彼らは建物に火をつけ、焼け落ちるのを眺めた。ワリの貴族たちはチチャを飲み干し、大事にしてきた杯を火に投げ入れた。

 醸造所が灰になると、何人かが首飾りを外し、最後の供物として残り火の中に置いた。誰もこの建物を二度と使えないよう、廃墟を砂で覆った。こうして醸造所は、20年前からチチャ造りの中心地を発掘している考古学者たちにとって、貴重な「タイムカプセル」となった。(参考記事:「ワリ文化の霊廟と財宝を発見、ペルー」)

 研究者たちはこのほど、セロ・バウルでの最後の宴で使われた土器を分析。研究結果が4月18日付けで学術誌「サステイナビリティ」に掲載された。それによると、この国境付近の入植地で、帝国が滅ぶ寸前までそれほどの宴会を続けていられたのは、醸造も酒器作りも地元の材料を使っていたおかげだという。

■一度に1500~2000リットルを生産

 紀元600年ごろから1050年ごろにかけて、ペルー沿岸とアンデス山脈の広い範囲を支配したワリ帝国。インカ帝国が力を持つずっと前に、大規模な道路網とかんがい用水路網を作り上げたワリの人々にとって、セロ・バウルは政治的に重要な場所だった。外交の中心だったこの地は、帝国の都ワリから南東へ徒歩で2~3週間かかるところにあった。そして、セロ・バウルの神殿の中には、ライバルを取り込もうと、隣国ティワナクの神々を祭ったものもあった。(参考記事:「金銀の耳飾り、ワリ文化の王族墓」)

「ワリ帝国は、セロ・バウルに来るさまざまな集団をまとめようとしていたことが分かります。その方法の1つと思われるのが、地元産のビールを振る舞った大きな宴会です」。論文の筆頭著者で、米シカゴのフィールド自然史博物館で人類学部門を率いているライアン・ウィリアムズ氏はこう話す。

 ウィリアムズ氏らは、セロ・バウルの醸造所で一度に生産できたチチャを1500~2000リットル以上と推定している。工業化以前の社会の醸造所としては、かなりの量だ。チチャは傷むのが早く5日程度しかもたないことを考えると、山上の宴会には、数百人を超す指導者たちが招待されていた可能性がある。

 今回、研究者たちは、こうした宴会用の物資がどのように生産されたか解明しようとした。醸造や飲用に使われ、ワリ文化の神々の姿に似せた土器は、遠く離れた都のワリで見つかった物に似ていた。だが、粉々に砕けた土器の化学分析から、セロ・バウルの杯は現地で作られ、粘土も地元産であることが分かった。

続きはソースで

https://cdn-natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/042200245/ph_thumb.jpg
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/042200245/
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引用元: 【考古学】インカ以前、ワリ帝国「ビール外交」の謎を解明[04/24]

インカ以前、ワリ帝国「ビール外交」の謎を解明の続きを読む

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1: 2019/02/09(土) 16:02:28.53 ID:CAP_USER
紀元前4世紀、ギリシャ北部のマケドニアから東方遠征を行い、たった10年でペルシャ帝国を滅ぼして、インダス河を超えたアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)の死について、ニュージーランドの研究者がついに原因を突き止めた!

■ペルシア制圧も32歳で死去

 アレキサンダー大王は、マケドニア国王のもとに生まれ、十代で哲学者アリストテレスに学び、20歳で父王の跡を継いでマケドニア王を継承。紀元前334年の東方遠征に先立って、北方のトラキアと南方のギリシャ本土を制圧したのち、同332年にはエジプトを占領し、ナイル河口にアレクサンドリア市を建設。



 翌年、ダレイオス3世が率いるペルシア軍10万を打ち破り、帝国を滅亡させたあとは、各地にアレクサンドリア市を建設しながら進軍を続け、同323年、ついにバビロンに帰還し、ペルシア、マケドニア、ギリシャの3地域を帝国に再編。その矢先に高熱に倒れ、10日後に32歳の若さで死去した。

■真説登場…なるか?


 大王の死をめぐっては、毒を盛られて暗◯されたとか、マラリアや西ナイル熱などの病死説のほか、ハチに刺されたなど、さまざまな説があるが、比較的最近の2014年に発表された論文では、強心剤や下剤などとして使われていた植物「ヘレボルス(クリスマスローズ)」の処方量を誤って、中毒を起こした可能性があると指摘されている。

続きはソースで

オタゴ大学のキャサリーン・ホール医学博士(Univ.of OTAGO/Department of General Practice and Rural Health)
https://www.hazardlab.jp/contents/post_info/2/8/1/28130/otago703211.jpg
https://www.hazardlab.jp/contents/post_info/2/8/1/28130/Aleksanteri_Suuri_331-323.png
https://www.hazardlab.jp/contents/post_info/2/8/1/28130/alex001.jpg

ハザードラボ
https://www.hazardlab.jp/know/topics/detail/2/8/28130.html
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引用元: 【話題】アレキサンダー大王 ギランバレー症だった!「死亡時刻」には生きていた?[02/09]

アレキサンダー大王 ギランバレー症だった!「死亡時刻」には生きていた?の続きを読む

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1: 2019/01/08(火) 15:00:34.06 ID:rVGpJO0l
1818年に発見された、「ベレニケ」と呼ばれるプトレマイオス朝の遺跡。ここは2012年に発掘が再開されるまで、詳しいことが明らかとされていなかった。

しかし、巨大な要塞が建設されていたことがこのたび判明し、当時戦争で利用されていた像に関する貿易の情報も明らかになりつつある。

■エジプト紅海沿岸で巨大要塞発見

先日、エジプト紅海沿岸の遺跡ベレニケで、アメリカの考古学研究チームによって巨大な要塞跡が発見された。

これは、2300年ほど前、エジプトがプトレマイオスによって統治されていた時代に建設されたもので、紅海から守るためのものと見られる。

要塞は大規模で、大きな部分は160m×80mにもなり、要塞の西側は2重に造られている。要塞の中には巨大な中庭が設けられ、地下水と雨水17,000L分を貯蓄できる合計2つの巨大プールも見つけられた。

続きはソースで

https://dps68n6fg4q1p.cloudfront.net/wp-content/uploads/2019/01/04113046/urn_cambridge_org_id_binary_20181210141411590-0690_S0003598X18002521_S0003598X18002521_fig2g.jpg
https://dps68n6fg4q1p.cloudfront.net/wp-content/uploads/2019/01/04113043/urn_cambridge_org_id_binary_20181210141411590-0690_S0003598X18002521_S0003598X18002521_fig1g.jpg
https://dps68n6fg4q1p.cloudfront.net/wp-content/uploads/2019/01/04113047/urn_cambridge_org_id_binary_20181210141411590-0690_S0003598X18002521_S0003598X18002521_fig3g.jpg

https://www.discoverychannel.jp/0000045386/
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引用元: 【考古学】戦争でゾウを利用していた2300年前の巨大要塞跡、エジプトで発見[01/08]

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1: 2018/04/14(土) 09:02:44.51 ID:CAP_USER
スウェーデン南部エーランド島のSandby borgで1500歳の玉ねぎが見つかった。The Localが報じた。

発見したチームによると、これは島とローマ帝国に貿易関係があったことを示している。

1000年ほど前にエーランド島には狩猟採集民が住んでいた。これは、2014年には島に関心を抱いた考古学チームが発見したものが示している。それからこの島では◯戮によって亡くなった14人の化石が発見されている。

続きはソースで

https://pbs.twimg.com/media/DahISLIX4AAOYf5.jpg
https://twitter.com/archaeologymag/status/984128965571788800/photo/1
https://jp.sputniknews.com/science/201804144779379/
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引用元: 【野菜】スウェーデンで1500年前のタマネギが見つかる

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1: 2018/03/15(木) 09:42:50.90 ID:CAP_USER
■半世紀以上も専門家たちを悩ませてきたその正体がついに明らかに

4世紀から7世紀の欧州では、ゲルマン系のゴート族やバンダル族がさかんに西へ移動していた。
いわゆる「ゲルマン民族の大移動」だ。彼らは衰退するローマ帝国の領地に次々に侵入し、定住した。なかでもバイエルン人は、6世紀前後に現在のドイツ南部に移住した民族だが、その墓地から、この地方には珍しい細長く変形した女性の頭骨が見つかり、専門家らは半世紀以上も頭を悩ませてきた。

 頭蓋を人為的に変形させるこうした風習は、当時の欧州ではいまのハンガリー周辺など、東方の一部でしか見られなかった。
その先はフン族と呼ばれる屈強な民族連合体が支配していた。そして、彼らの埋葬地からは、女性の変形頭蓋が数多く見つかっている。
その風習が、どのような経緯でドイツまで入り込んだのだろうか。

フン族か、あるいは別の民族が頭蓋変形の技術を持ち込み、それを見たバイエルンの女性たちが真似たのではないかという説もある。
だが、最新の研究により、この変形した頭骨がよその土地から移住してきた女性のものであることが明らかになり、3月12日付けの学術誌「米国科学アカデミー紀要(PNAS)」に論文が掲載された。

■似ても似つかない顔の男と女

 論文を発表した研究チームは、5~6世紀のバイエルン人の墓地6カ所に埋葬されていた36人分の人骨のゲノムを解析した。
そのうち26人が女性、10人が男性で、14人の女性の頭骨に頭蓋変形が施されていた。
そのほか、ローマ兵士のものと思われる人骨や、より東のいまのクリミアとセルビアに埋葬され、やはり頭蓋変形が施された女性2人の人骨など、5人が分析対象に加えられた。

 頭蓋変形は、自然に起こったものではない。生まれてすぐから骨の形が決まる時期まで、赤ちゃんの頭部を注意深く締め付けて、形を固定させる。
すると、その形を保ったまま成長するため、大人の頭も細長く伸びた形になる。
見た目の美しさなのか、健康のためなのか、他の理由があるのか、目的は定かでない。

 研究者らは、人骨のDNAの一部を解析し、11人分に関しては全ゲノム配列を決定した。
これらのデータから、外見、祖先の出身地、健康状態がわかる。

 その結果、男性たちは恐らく小さな集団に属する農民で、金髪に青い目を持ち、一様に似たような顔立ちをしていた。
頭骨が変形していないか、わずかに変形しただけの女性の目と髪の色も同じだった。
だが、頭骨が大きく変形した女性たちの多くは茶色い目に金髪か茶髪で、似ても似つかない顔だったことが明らかになった。

外見の違いは氷山の一角に過ぎない。さらに中世初期バイエルン人の遺伝子を現代人のそれと比較してみると、大きな違いがあることが判明した。

 男性の遺伝子はいまの北欧や欧州中央部の人々に近いのに対し、とりわけ、変形頭蓋を持つ女性たちの結果は驚くべきものだった。
ルーマニアやブルガリアなど、いま欧州南東部にいる人々の遺伝子に近いものの、欧州南部の各地に由来する遺伝子がまちまちに交じり、なかには東アジア由来の遺伝子を2割以上もつ者が1人いた。
いま欧州にいる人で東アジア由来の遺伝子をこれほどもつ人は知られていない。

「考古学的には、彼女たちは属していた集団の人々とそれほど変わったところはありませんが、
遺伝学的には全く異なっています」と、ドイツにあるマインツ大学の集団遺伝学者で、論文の著者であるヨアキム・ブルガー氏は語った。

続きはソースで

画像:ドイツ南部にある1400年前の墓地で見つかった頭骨には、人為的に変形された跡があった。
左側の頭骨は大きく変形され、中央はわずかに変形されたもの。
専門家は、頭蓋変形がドイツよりも東方に住む民族の風習だったと考えている。
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/031400116/ph_thumb.jpg

ナショナルジオグラフィック日本版サイト
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/031400116/
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引用元: 【考古学/DNA】中世ドイツの謎の変形頭蓋骨、異民族の花嫁だった まるでドラマの題材になりそうな話[03/15]

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