理系にゅーす

理系に関する情報を発信! 理系とあるものの文系理系関係なく気になったものを紹介します!

弥生時代

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
1: 2019/06/18(火) 00:59:53.02 ID:CAP_USER
縄文時代の終盤に人口急減 寒冷化か、DNA解析で
https://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2019061701002244.html
2019年6月17日 18時55分
東京新聞,TOKYO Web,(共同)

 縄文時代の終わりに人口が急激に減少していたことが現代の日本人男性のDNA解析で分かったと、東京大の大橋順准教授(集団ゲノム学)らのチームが17日、英科学誌に発表した。
 狩猟採集生活の中、寒冷化し食べ物が減ったことが原因で、弥生時代になって稲作が朝鮮半島を経由して伝わり・・・

続きはソースで

ダウンロード

引用元: 【歴史】縄文時代の終盤に人口急減 寒冷化か、DNA解析で[06/17]

縄文時代の終盤に人口急減 寒冷化か、DNA解析での続きを読む

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
1: 2019/02/21(木) 16:07:23.17 ID:CAP_USER
弥生時代中期中ごろから後半(紀元前2世紀末~前1世紀)に石製の硯(すずり)を製作していたことを示す遺物が、北部九州の複数の遺跡にあったことが、柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)の調査で明らかになった。国内初の事例。硯は文字を書くために使用したとみられ、文字が書かれた土器から従来は3世紀ごろとされてきた国内での文字使用開始が300~400年さかのぼる可能性を示す貴重な資料となる。

硯の遺物が見つかったのは、潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡(福岡県糸島市)=前2世紀末▽中原遺跡(佐賀県唐津市=同▽東小田峯遺跡(福岡県筑前町)=前1世紀=の3遺跡。既に出土していた石製品を柳田客員教授が再調査したところ、末広がりになる形状の薄い板で、表が磨かれ裏が粗いままという硯の特徴を示しながら、仕上げがされずに破損したものがあり、未完成品だった。墨をつぶす研ぎ石の未完成品や、石材を擦って切断する道具・石鋸(いしのこ)も確認され、現地で硯が製作されたと判断した。

続きはソースで

■福岡県糸島市の潤地頭給遺跡で出土した工作用の石鋸(上2点)と石製硯の未完成品(下
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2019/02/19/20190219k0000m040232000p/6.jpg
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2019/02/19/20190219k0000m040231000p/6.jpg

毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20190219/k00/00m/040/236000c
images


引用元: 【考古学】北部九州に紀元前の硯製作跡 国内の文字使用開始、300年以上さかのぼる可能性[02/19]

北部九州に紀元前の硯製作跡 国内の文字使用開始、300年以上さかのぼる可能性の続きを読む

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
1: 2018/08/27(月) 11:09:57.17 ID:CAP_USER
奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳(全長約280メートル)は、3世紀中ごろ、最初に築かれた大型の前方後円墳だとみられています。このころの倭(わ、日本列島)について記した中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する女王・卑弥呼(ひみこ)の墓の有力な候補地としても知られています。

 この古墳でみつかった特殊な土器が、吉備(きび、現在の岡山県)の複数の地域の工人によってつくられたと考える新説を、最近、春成秀爾(はるなりひでじ)・国立歴史民俗博物館名誉教授(考古学)が発表しました。箸墓古墳に葬られた人物(被葬者〈ひそうしゃ〉)が、吉備と強い結びつきをもっていた可能性をうかがわせる研究成果です。

続きはソースで

https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20180824003934_comm.jpg
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20180824003932_commL.jpg
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20180824003936_commL.jpg
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20180824003943_commL.jpg

朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASL8S574CL8SPTFC00R.html
ダウンロード (6)


引用元: 【考古学】奈良の箸墓古墳 被葬者は岡山出身?カギ握る埴輪の祖先[08/27]

奈良の箸墓古墳 被葬者は岡山出身?カギ握る埴輪の祖先の続きを読む

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
1: 2018/12/02(日) 19:52:19.45 ID:CAP_USER
 弥生人はどのようにして誕生したのか――。国史跡・青谷上寺地遺跡(鳥取市青谷町)で発掘された弥生時代後期(2世紀)とみられる人骨のDNA分析が今年から始まった。32人分のDNAを解析したところ、1人の縄文人系をのぞいて31人が渡来人系だったことが分かった。縄文人にだんだん渡来人が混じって弥生人になるというこれまでの定説とは少し違う様相となっている。

 人骨のDNA分析を進める研究班代表の国立科学博物館(茨城県つくば市)の篠田謙一副館長(人類学)によると、2000年に同遺跡の溝から見つかった人骨の上あごと下あご計37個からDNAの採取を試みたところ、34個から抽出できた。

続きはソースで

https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20181129002963_comm.jpg
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20181129002982_commL.jpg

朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASLCJ55GZLCJPUUB00N.html
ダウンロード


引用元: 【人類学】鳥取)弥生時代の人骨のDNA分析 大半が渡来人[11/30]

鳥取 弥生時代の人骨のDNA分析 大半が渡来人の続きを読む

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
1: 2018/11/11(日) 20:09:50.77 ID:CAP_USER
「始まりの国」淡路島から「陰の王国」大阪に向かう船の上にて。大阪と奈良の山並みを遠望する(筆者撮影、以下同)(他の写真を見る)

 新潮文庫「古代史謎解きシリーズ」の淡路島・大阪編を上梓した(『「始まりの国」淡路と「陰の王国」大阪』)。毎度おなじみ、新潮文庫編集部・高梨通夫氏と、凸凹道中だ。

 今回の取材は、大阪が中心のはずだったが、淡路島で、意外な発見があった。淡路島は、瀬戸内海を塞ぐ巨大な「フタ」で、西側の海域は古代の海人(あま)の楽園だった。そしてここに、淡路島のみならず、ヤマト建国、古代史の謎を解くための大きなヒントが隠されていたことに、気付かされたのだ。

 淡路島はイザナキとイザナミが磤馭慮(おのころ)島の次に生んだ土地だ。また、伊勢内宮(三重県伊勢市)と淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神宮(兵庫県淡路市)、そして葛城山は同緯度線上にあって、聖なるラインを形成している。だから、伊弉諾神宮はパワースポットと信じられ、多くの参拝客が訪れる。淡路島は、日本を代表する聖地なのだ。

 しかし一方で、淡路島は「罪を犯した貴種を流竄する場所」でもあった。8世紀に淳仁天皇と早良親王がこの島に流された(早良親王は移送途中で亡くなり、遺骸が淡路島に埋葬された)。この、光と影を、どう説明すれば良いのだろう。

 ここに、淡路島の複雑な歴史が隠されている。順番に説明していこう。ヤマト建国前後に、淡路島は大きく揺れ動いていたのだ。

■淡路島の立場

 近年淡路島で、弥生時代後期の鉄器生産工房が2つみつかっている。五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡(淡路市黒谷)と舟木遺跡(同市舟木)だ。

 五斗長垣内遺跡が先にみつかり、すでに復元され、公園になっている。弥生時代後期の1世紀ごろに約100年続いた鍛冶工房だ。かたや舟木遺跡は、弥生時代後期の2世紀半ばから3世紀の遺構で、こちらは邪馬台国の時代の鉄器工房だ。

 邪馬台国の時代の畿内は、鉄器の過疎地帯だったが、淡路島で盛んに鉄器が作られていたことが分かって、邪馬台国畿内説の証拠になるのではないかと騒がれている。しかし、畿内から鉄はほとんど出てこないのだから、それはまちがいだ。さらに、淡路島から出土した銅鐸は、出雲のものと兄弟関係だったことが分かっている。淡路島に鉄の素材を流していたのは、出雲だろう。ここに、淡路島の立場が示されている。

 弥生時代の最先端地域は北部九州で、朝鮮半島の鉄を独占的に入手していた。連載中述べてきたように、北部九州は天然の要害に守られたヤマトの発展を恐れ、策を練って出雲と手を組み、関門海峡を封鎖して鉄の流通を止めたのだった。さらに、「北部九州+出雲連合」は、淡路島に鉄を流し、味方につけ、明石海峡を支配して、通せんぼうをしていたのだろう。

■明石海峡の争奪戦

『播磨国風土記』(播磨国は兵庫県。淡路島の対岸)に興味深い記事が載っている。

 出雲神とアメノヒボコ(天日槍)が、播磨で戦っていたという。『日本書紀』に従えば、アメノヒボコは第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇の時代の人だ。崇神天皇がヤマト建国の初代王と目されていて、アメノヒボコはヤマト黎明期、歴史時代の人なのだから、神と戦うのはおかしい。

 ただし、『播磨国風土記』は、朝廷に提出した原本を(おそらく複写して)手元に残しておいたものが今に伝わったものだ。要は、「8世紀の藤原政権のチェックを受ける前の原稿」なのだ。『日本書紀』の時代設定と矛盾するからといって、これを無視することはできない。

『播磨国風土記』の編者は、貴重な伝承を記録してくれたと思う。「出雲」はなぜ播磨に進出していたのか。そしてアメノヒボコと播磨で戦ったのはなぜか。

続きはソースで

https://www.fsight.jp/mwimgs/b/5/400/img_b5e3facd5a1bdb46efa4a66675692f902237014.jpg
https://www.dailyshincho.jp/article/2018/11101130/
ダウンロード


引用元: 【古代史】「ヤマト建国」に隠された淡路島の「不運な歴史」[11/10]

「ヤマト建国」に隠された淡路島の「不運な歴史」の続きを読む

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
1: 2018/11/15(木) 09:23:23.82 ID:CAP_USER
弥生時代、女王・卑弥呼が治めた「邪馬台国」があったという説もある九州北部。ことし8月、長崎県佐世保市の離島、高島で古代史の研究者を驚かせるものが発掘されました。それは、下半身に比べ上半身が異常に太く、驚くほど“マッチョ”な体型をしていた弥生時代の人骨です。“マッチョ”な理由を探ってみると、古代人たちの知られざる営みが見えてきました。(福岡放送局ディレクター 佐々木健)
https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/still/web_tokushu_2018_1114_eyecatch.jpg

■上半身だけ特別に発達した弥生人!

https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/still/web_tokushu_2018_1114_img_01.jpg

今回人の骨が見つかったのは、長崎県佐世保市の離島、高島にある弥生時代の宮ノ本遺跡です。発掘に立ち会った人類学者の海部陽介さんは、初めて見たとき、驚きを隠せなかったといいます。

一般的な弥生人の骨と比べ、異常に太く、しかも、上腕骨や鎖骨など上半身の骨が特別に発達した不思議な体型です。
https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/still/web_tokushu_2018_1114_img_03.jpg

■九州西北部の島からも
https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/still/web_tokushu_2018_1114_img_04.jpg

一般的な弥生人の男性の平均身長が推定162.6センチで、ヒョロッとしていたのに対し、高島の弥生人は、それより4センチほど低いものの、筋骨隆々で、胸や腕、首などが異常に発達していたことがわかりました。

しかもその体重は、推定でなんと77.2キロ!身長170センチ体重59キロの私よりも、実に18キロ重いのです。
https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/still/web_tokushu_2018_1114_img_05.jpg

詳しく調べると、こうしたマッチョ体型の弥生人の人骨は、高島以外にも、長崎県の平戸や五島、そして熊本県の天草など、九州西北部の複数の島から見つかっていたことがわかりました。

■CTスキャンで分析すると

どうしてそんなマッチョ体型になったのか。海部さんは、筑波大学でスポーツ科学を研究する足立和隆准教授に骨の詳細な分析を依頼しました。
https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/still/web_tokushu_2018_1114_img_08.jpg

左側が、現代人の男性、右側が高島のマッチョな弥生人の上腕骨の断面図です。現代人の上腕骨の断面が丸っぽいのに対し、高島の弥生人の骨には、三角にとがったところがあるのが分かります。足立准教授は、この突起が、腕や肩を動かす三角筋によって、上腕骨が強く引っ張られていた証拠だといいます。強い負荷がかかると三角筋が太くなり、それに耐えられるように骨と接続している部分も太く変形します。

こうした突起が周囲3方向にできていたことから、腕をあらゆる方向に回したり引っ張ったりする動作を激しく繰り返していたのではないか。

足立准教授は、彼らが“舟のこぎ手”だったと推測しています。

■マッチョな弥生人が運んでいたのは?

「この集団は、“貝の交易”をやっていた、つまり貝の運び屋だったんじゃないか」(海部さん)

“貝の交易”とは何かを知るために、福岡県飯塚市にある飯塚市歴史資料館を訪ねました。ここには、弥生時代の遺跡から発掘されたものが展示されています。

銅鏡や祭器などの宝物が数多く並ぶ中、ひときわ目立っていたのが白い腕輪です。「貝輪」と呼ばれる装飾品で、当時の権力者が身につけていたとされています。この貝輪、弥生文化が花開いた佐賀や福岡など九州北部の各地で出土しています。

使われているのは「ゴホウラ」という巻き貝。九州近海ではなく、沖縄や奄美大島など南の海だけに生息しています。

https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/still/web_tokushu_2018_1114_img_11.jpg

1000km以上の距離を、誰がどうやって運んできたのか、これまで大きな謎でした。

続きはソースで

NHK NEWS WEB
https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2018_1114.html
ダウンロード (4)


引用元: 【古代】“マッチョ”な弥生人 その正体は!?上半身だけ特別に発達した弥生人!の人骨が発掘された[11/14]

“マッチョ”な弥生人 その正体は!?上半身だけ特別に発達した弥生人!の人骨が発掘されたの続きを読む

このページのトップヘ