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戦国武将

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1: フランケンシュタイナー(兵庫県) 2014/01/22(水) 18:45:15.19 ID:ButApxLt0 BE:284874522-PLT(12001) ポイント特典

山形の礎を築いた戦国武将、最上義光が庄内地方の神社にあてた古文書が見つかり、専門家は、義光が庄内地方を支配下に置いていたことを裏付ける貴重な資料だとしています。

新たに見つかったのは、最上義光から現在の鶴岡市下山添にあたる下山添村の八幡神社に出された2通の文書です。
文書は、神社に土地を与えるかわりに、今後も忠義を尽くすよう求める内容で、義光の印も押されています。

神社の関係者と山形市に住む個人がそれぞれ保管していたもので、山形大学人文学部の松尾剛次教授が、印や紙の質などから原本と確認したということです。

松尾教授は、「それまで庄内地方を支配していた勢力から土地を取り上げて、寺社などに分配していたことがわかり、義光の庄内地方の支配を裏付ける貴重な資料だ」と話しています。
文書を保管していた八幡神社の佐藤信弘宮司は、「歴史的に貴重な品物だとわかり、驚いている。管理態勢を整えて、大切に保管したい」と話していました。

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http://www.nhk.or.jp/lnews/yamagata/6024421291.html?t=1390383845203



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~~引用ここから~~

1: ムーンサルトプレス(大阪府) 2013/12/03(火) 09:52:48.33 ID:7jPgdX/X0 BE:276042825-PLT(12001) ポイント特典

 兵庫県伊丹市立博物館は2日、戦国武将、荒木村重(道薫)に幽閉された黒田官兵衛が、後に村重に送った書簡の写しが見つかったと発表した。織田信長に謀反を起こした村重の説得に訪れた官兵衛は1年間幽閉された。それから4年後の手紙だが、文面からは親しげな関係がうかがえ、研究者は「幽閉は過酷なものではなく、2人は変わらずに親しい関係だったのでは」と分析している。

 同館によると、今年10月、伊丹市の郷土史家が1936年発行の「茶道全集」に書簡の内容が掲載されているのに気付き、同館が京都市上京区の相国寺光源院で書簡を確認した。

 村重は伊丹にあった有岡城の元城主で、官兵衛とともに織田信長に仕えた。1578(天正6)年、村重は信長に謀反を起こし、説得に訪れた旧知の官兵衛を有岡城に幽閉。1年後に城を捨てて逃れ、官兵衛は解放された。書簡は本能寺の変で信長が討たれた翌年の1583(同11)年に書かれた。

 当時、官兵衛は秀吉の配下で、茶人となっていた村重は茶道を通じて秀吉との関係を深めていた。
書簡は、村重から光源院の領地問題の相談を受けた官兵衛が返書を出し、これを村重が書き写し、交渉が順調だと伝えるために光源院に送ったものとみられる。

 「秀吉様のお考えどおりに間違いのあるわけがありません」と秀吉をたたえる言葉や「姫路へのお供をされるのであれば、この地へお出(い)でになるだろうと存じていたところ、お出でになられず、とても残念」と再会できなかったことを惜しむ文がつづられていた。

 神戸女子大の今井修平教授(日本近世史)は「文面からは遺恨は感じられない。茶人となった村重が政治に関与し、秀吉の下で力を合わせて政策を実現しようとする2人の関係を示す貴重な資料だ」と評価している。【幾島健太郎】

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http://mainichi.jp/graph/2013/12/03/20131203k0000m040151000c/image/001.jpg
http://mainichi.jp/select/news/20131203k0000m040151000c.html




引用元: 黒田官兵衛から荒木村重に、幽閉から4年後に送られた親しげな書簡の写しが見つかる
 


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