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魏志倭人伝

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1: 2018/08/27(月) 11:09:57.17 ID:CAP_USER
奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳(全長約280メートル)は、3世紀中ごろ、最初に築かれた大型の前方後円墳だとみられています。このころの倭(わ、日本列島)について記した中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する女王・卑弥呼(ひみこ)の墓の有力な候補地としても知られています。

 この古墳でみつかった特殊な土器が、吉備(きび、現在の岡山県)の複数の地域の工人によってつくられたと考える新説を、最近、春成秀爾(はるなりひでじ)・国立歴史民俗博物館名誉教授(考古学)が発表しました。箸墓古墳に葬られた人物(被葬者〈ひそうしゃ〉)が、吉備と強い結びつきをもっていた可能性をうかがわせる研究成果です。

続きはソースで

https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20180824003934_comm.jpg
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20180824003932_commL.jpg
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20180824003936_commL.jpg
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20180824003943_commL.jpg

朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASL8S574CL8SPTFC00R.html
ダウンロード (6)


引用元: 【考古学】奈良の箸墓古墳 被葬者は岡山出身?カギ握る埴輪の祖先[08/27]

奈良の箸墓古墳 被葬者は岡山出身?カギ握る埴輪の祖先の続きを読む

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1: 2019/01/01(火) 00:05:54.36 ID:CAP_USER
■『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』、日本神話、考古学資料などを、総合的に統計学的手法で分析すれば、99.9%の確率で、邪馬台国は福岡県にあったことが言える。

■和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」

白鳥庫吉(1865~1942年)は、明治期の東京帝国大学(現在の東京大学)を代表する東洋史学者であった。白鳥は1910年に発表した論文「倭女王卑弥呼考」のなかで、『魏志倭人伝』の「卑弥呼(ひみこ)」に関する記事内容と、『古事記』『日本書紀』の「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」に関する記事内容とを比較している。そして、この二つの記事内容について「その状態の酷似すること、何人もこれを否認するあたわざるべし」と述べている。

 白鳥庫吉の見解を受け継ぎ、それを「邪馬台国東遷説」という形で大きく発展させたのは、東京大学の哲学者・和辻哲郎(1889~1960年)であった。和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」は『日本古代文化』(岩波書店、1920年刊)のなかに見える。「邪馬台国東遷説」というのは、邪馬台国は九州に存在し、のちにその勢力を受け継ぐものが東遷して「大和朝廷(やまとちょうてい)」になったとする説である。
和辻哲郎氏(1889-1960年)
 和辻哲郎や、その説を受け継ぐ人たちの「邪馬台国東遷説」の要点をまとめれば、次のようになる。

(1) 卑弥呼のことが神話化し、伝承化したものが天照大御神である。
(2) 九州にあった邪馬台国が、本州の大和に移動した。神武天皇の東征伝承は、その間の事情を伝えるものとみられる。
 和辻哲郎は述べる。『古事記』『日本書紀』の伝える「神武東征」の物語の「国家を統一する力が九州から来た」という中核は、否定しがたい伝説に基づくものであろう、と。
(3) 九州から大和へ移動した時期は、3世紀の後半から、西暦300年前後にかけてのころであろう。

■年代論的根拠

和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」にはその後、年代的根拠がさらに詳しく与えられるようになってきている。

(中略)

■天照大御神のいた場所

「卑弥呼=天照大御神」とすれば、天照大御神のいた場所が、邪馬台国であることになる。邪馬台国についての手掛かりを『古事記』『日本書紀』のなかに、たどることができることになる。

 『古事記』『日本書紀』は天照大御神のいた場所を「高天の原(たかまのはら)」と記す。「高天の原」は、どこだろう。 

 いま『古事記』の上巻、いわゆる神話の巻を取り上げる。『古事記』上巻には「筑紫(つくし)」「日向(ひむか)」「胸形(むなかた)」など、現実的に場所の特定できる地名が現れる。その地名の統計をとる。

 その結果を図示すれば、図3のようになる。圧倒的に多いのが、「九州地方」と「山陰地方」の地名である。『古事記』の主要なテーマは「九州地方」の勢力と、大国主(おおくにぬし)の命(みよ)が治める出雲を中心とする「山陰地方」の勢力との対立図式といえる。いわゆる「出雲の国譲(くにゆず)り」伝承が中心的なテーマといえる。「高天の原」と重なり合うのは、この「九州地方」、特に北九州地方である。
http://tawayama.net/wp-content/uploads/7f0beb52698951740bca688fe0647a4c.jpg

■「平塚川添遺跡」の出現

『古事記』『日本書紀』によれば、高天の原には「天の安の河(あめのやすのかわ)」という河が流れていた。天照大御神と、その弟の須佐の男の命(すさのおのみこと)とがこの河を中において談判をしたり、神々が「天の安の河」の河原で、会議を開いたりしている。

 九州の地図をみれば、現在でも北九州のほぼ中央に「夜須」という地名がある。この北九州の「夜須」の地名は、『日本書紀』や『万葉集』では「安」の字が当てられている。

 筑後川の支流の小石原川は、「夜須川」とも呼ばれる。そして1992年に朝倉市(当時は甘木市といった)を流れる夜須川のすぐ近くから、弥生時代後期の大環濠集落跡として「平塚川添遺跡」が出現した。考古学者の佐原真氏は当時この平塚川添遺跡を「学術的には吉野ケ里に匹敵する遺跡」(朝日新聞)と述べている。


  ■九州と大和の地名の一致 
 地名学者の鏡味完二氏はその著『日本の地名』(角川書店、1964年刊)のなかで、およそ次のようなことを述べている。
「九州と近畿の間で、地名の名付けかたが実によく一致している。これは単に民族の親近ということ以上に、九州から近畿への、大きな集団の移住があったことを思わせる」

 「大きな集団の移住」、これは「邪馬台国東遷説」と重なり合うような考えである。福岡県の朝倉市と奈良県の朝倉の地との周りに、次のような驚くほどの地名の一致を見いだすことができる(地図1参照)。なお、『日本書紀』によれば、福岡県の朝倉市は、第37代斉命天皇の「朝倉の宮(朝倉の橘の広庭の宮)」があった場所であり、奈良県の朝倉の地は、第21代雄略天皇の「朝倉の宮(泊瀬の朝倉の宮)」のあった場所である。

■北九州(北の笠置山から始まって、時計の針の方向と逆に一周すれば)笠置山→春日→御笠山→住吉(墨江)神社→平群(へぐり)→池田→三井→小田→三輪→雲堤(うなで)→筑前高田→長谷山→加美(上)→朝倉→久留米→三潴(みづま)→香山(高山)→鷹取山→天瀬(あまがせ)→玖珠(くず)→上山田→山田市→田原→笠置山

■畿内(北の笠置[笠置山]から始まって同じく時計の方向と逆に一周すれば)笠置(笠置山)→春日→三笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→織田→三輪→雲梯(うなで)→大和高田→長谷山→賀美(上)→朝倉→久米→水間(みづま)→天の香山(高山)→高取山→天ヶ瀬(あまがせ)→国樔(くず)→上山田→山田→田原→笠置山

これら23個の地名は、発音がほとんど一致している。23個の地の相対的位置も大体同じである。驚くほどの一致といってよいであろう。

詳細・続きはソースで

https://ironna.jp/article/4548?p=1
ダウンロード (3)


引用元: 【邪馬台国九州説】は「99・9%」福岡県にあった!ビッグデータが解いた「卑弥呼の墓」の謎 

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1: 2018/05/14(月) 22:02:41.66 ID:CAP_USER
邪馬台国の有力な候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で見つかった大量の桃の種の年代を測定した結果、女王・卑弥呼の時代と重なることがわかりました。邪馬台国の謎に迫る新たな資料として注目されます。

纒向遺跡は、3世紀から4世紀にかけての大規模な集落跡で、邪馬台国があった場所の有力な候補の1つとされています。

遺跡では、8年前、卑弥呼の宮殿跡との説もある3世紀前半の大型建物跡のそばで、桃の種が2000個以上見つかりました。

続きはソースで

関連ソース画像
http://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/e/4/e4e19_1509_bbb0e83d_2ee86e0b.jpg

NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180514/k10011438091000.html
ダウンロード (2)


引用元: 【考古学】奈良の纏向(まきむく)遺跡の”桃の種” 年代は卑弥呼の時代と重なる 邪馬台国研究の新資料[05/14]

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1: 2018/01/10(水) 17:34:24.14 ID:CAP_USER
 長崎県壱岐市教育委員会は9日、同市のカラカミ遺跡で、「周」という漢字の左半分が刻まれた土器片(弥生時代後期、2世紀頃)が出土したと発表した。

 同遺跡は、中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された「一支いき国」の交易拠点跡とされ、当時の九州北部で広範囲に文字が伝わっていた可能性も出てきた。

 漢字が記された資料は福岡市・志賀島で見つかった「漢委奴国王」の刻印を持つ金印や銘文のある鏡などがいち早く国内に入っているが、土器としては国内最古級となる。

 土器片は縦7・5センチ、横8・8センチ。鉢(口径23センチ、高さ7・7センチ)の一部とみられ、文字は縁部分に刻まれていた。

続きはソースで

画像:「周」の左半分が刻まれた土器
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20180110/20180110-OYT1I50005-N.jpg

図:刻まれた文字のイメージ
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20180110/20180110-OYT1I50004-N.jpg

http://www.yomiuri.co.jp/photo/20180110/20180110-OYT1I50008-N.jpg

読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20180110-OYT1T50027.html

ダウンロード (2)


引用元: 【考古学】(2世紀頃)弥生期土器に漢字、権力者以外にも文字伝わる?

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1: 2016/03/07(月) 19:03:19.45 ID:CAP_USER*.net
国内最古級となる弥生時代後期(1~2世紀ごろ)のすずりが福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で見つかり、市教育委員会が1日、発表した。

images


この遺跡は中国の史書「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」の都とされ、邪馬台国時代の倭(わ)国(日本)が文字を用いて外交した裏づけとなる。

出土したすずりは石製で、長さ6・0センチ、幅4・3センチ、厚さ6ミリの破片。薄く裏面の粗い加工など中国・漢代の板石すずりと特徴が一致し、復元すると長さ10~17センチのほぼ長方形とみられる。弥生土器や朝鮮半島製の楽浪(らくろう)系土器が集積した「土器だまり」で見つかった。弥生時代のすずりは田和山遺跡(松江市)に続き国内2例目。

続きはソースで

(編集委員・中村俊介)

画像
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20160301004720_comm.jpg
http://www.asahi.com/articles/ASJ2Y5R8KJ2YTLZU001.html


引用元: 【社会】弥生時代、文字使い外交か 福岡で最古級のすずり発見

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1: 2016/03/02(水) 12:32:51.36 ID:CAP_USER.net
弥生時代の国内最古級すずり出土 倭人伝の記述裏付け 糸島市 [福岡県] - 西日本新聞
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/f_toshiken/article/227991


 福岡県糸島市教育委員会は1日、同市の三雲・井原(いわら)遺跡で、弥生時代後期(1~2世紀)のものとみられるすずりの破片が出土したと発表した。
同遺跡は3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に登場する伊都国の王都があったとされ、中国の前漢時代から朝鮮半島北部に置かれた楽浪郡製と同形式の土器も多数出土している。
倭人伝には、伊都国に滞在した楽浪郡の使節が外交文書などを取り扱ったとの記述もあり、これを裏付ける発見として注目される。

 出土したすずりの破片は灰色の石製で、長さ6センチ、幅4・3センチ、厚さ0・6センチ。中国・漢代に普及し、台に固定して用いられた長方形のすずりの一部とみられる。
表側には実際に使われたようなくぼみが確認された。弥生時代のすずりの発見は松江市の田和山遺跡に次いで国内2例目。

続きはソースで

ダウンロード
※画像はイメージで本文と関係ありません


【ワードBOX】三雲・井原遺跡
 伊都国の王都とされる弥生時代から古墳時代にかけての集落・墳墓遺跡。福岡県糸島市東部の瑞梅寺川と川原川に挟まれた地域に位置する。
三雲南小路王墓や井原鑓溝(やりみぞ)王墓で約80点もの銅鏡が見つかったほか、今回のすずりが見つかった三雲番上地区ではこれまでも数十点の楽浪系土器が出土していた。
江戸時代の福岡藩の国学者、青柳種信が出土遺物の記録を残した。

引用元: 【考古学】弥生時代の国内最古級すずり出土 「魏志倭人伝」の記述裏付け 糸島市 [福岡県]

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